教員生活史2
教育委員会へ
平成6年−9年 43歳
指導主事に
赴任したところは、教育委員会の中の人権教育指導室というところであった。名前は知っていたけれど、場所を知らなかった。15畳くらいの部屋に5人という部署であった。何もかもが始めての経験で大いに勉強になった。よかったのは、夏に冷房がきくことである。3年間夏には涼しい思いをさせていただいた。
警察の食堂
すぐ前に警察がある。そこの地下に食堂があり、毎日食べにいった。たまに、背広でいくと、女性の警察官が礼をしてくれる。若い卒配が、「どうぞ」と私にお茶をだしてくれる。私は、背が高くて目つきが悪いから刑事と間違われたのであろう。なんとなく痛快あった。礼をされたのはけっこう何度もあった。なんか、刑事ドラマに出てるような気になった。
H市立N西中学校
平成10年−18年 46歳から56歳
教頭で赴任
管理職として初めて現場に出ることになり、不安いっぱいであった。このときは校長と教頭が同時にかわるということになった。
教頭は4年やった。校長は6年やった。
教頭の時にPTAの祭りを「ふれあいフェスティバル」と命名し、はじめて餅つきを入れたり地域の人たちの応援をもらって大成功した。教頭として達成感があった。
撤収が完了したあともPTAの人と感激を語り合ったのを昨日のことのように思い出す。
ここで校長に昇進した。都合10年間いたから、もののありかなどがすべてわかっていた。
バイク5台を乗り継ぐ
この中学にくる前に、バイクの免許をとっていた。この中学にいる間に、合計5台のバイクを乗り継いだ。250cc、1100cc、400cc、600cc、600ccである。我ながらよくこれだけ乗ったものだと思う。
若かった時でもあったので、休みの日にはバイクでスペイン村や明治村に行ったものだ。私が年を感じた時
体育館の舞台の上に登ると水銀灯を上げ下げするスイッチがある。教頭のときはすいすいと登って、水銀灯を下げて交換をした。
しかし、校長になって3年ほどすると、舞台上に登るのが大変になってきた。今にして思うと、あれが年を感じたということなのだろうと思う。
職場体験
ちょうど職場体験が始まり始めたころで、近所や京田辺のあたりを一週間ほど手当たり次第にバイクでまわって「生徒の勤務先」を探し回った。これは五年ほど続けた。幼稚園や保育園は男子に人気があった。これは地味に大変な作業であった。
N市立K田小学校
平成19年−20年 57歳から58歳
N市への異動
N西中学にも10年いたので、そろそろ他市に異動だろうと思っていた。3月末の内示の日にH市の教育委員会に行くと、「N市に異動が決まったから、今日の午後3時にN市教育委員会にいってください」ということであった。
N市ではK田小学校への配置と告げられた。この日から私はいても立ってもいられないほどの不安と緊張感にとらわれた。何かにすがりたくて何かに癒やされたくて「マドンナたちのララバイ」を何度も何度も狂ったように聞いた。
N市の小学校に異動が決まった3月30日。この日は11時からN市で辞令交付式がある。私はいったんN西中に出勤して、9時半にここを出ようと考えていた。
N西中に来るのは実質この日が最後である。校長室にはすでに私の湯飲みも何もない。校長室の窓から見ると赤いモクレンが満開であった。私は、ここにモクレンの木があることをはじめて知ったし、ここで赤いモクレンを見るのも初めてであった。私との別れを惜しんでくれているような気がした。しっかりと目に焼き付けておかねばと思った。
9時半が近づいてくる。職員室にいる職員は異様にしーんとしている。皆、私の最後の挨拶をまっているのだ。10年もいると本音で話せる職員もいたが、すべてがリセットされる。私の誇りも実績もアイデンティティもすべてここにおいて行く。
私は、つらくて悲しくて寂しかったけれど、ここで永久の別れをしなくてはならない。
「先生方、長い間お世話になりました」私の口から出たのはここまでであった。あとは感極まって言葉が出なかった。N市に向かって大型バイクを走らせた。私を包んだのは耐えがたい不安と緊張と漠とした寂寥感だった。とにかく何かにすがりたい癒やされたいと、そればかり願っていた。ヘルメットの中で泣きながら「マドンナたちのララバイ」を何度も何度も何度も口ずさんだ。
人生であの瞬間ほど辛くて寂しかったことはなかった。
4月1日に赴任すると、早速年輩の女性教師が実に親しげに私に声をかけてくれた。それで、不安がいっぺんにふきとんだ。
給食について
給食についての失敗談である。毎日調理員が11時半ころに、校長室に給食を持ってきてくれる。先に食べては職員に失礼だと思い、職員の給食時間まで待っていた。一週間ほどこういうふうにしていたら、教頭さんが、これは検食で先に食べるものだと教えてくれた。なるほどと思い、それからは遠慮なく先に食べるようにした。
この小学校は実に居心地がよかった。小学校というところは、良くも悪しくも校長を中心には動いていない。担任中心主義で、すべては担任サイドですすめていく。遠足の行き先など、一切相談もなく決まる。決まってから、私が知る程度である。
不審者対応訓練
一番困ったのは、不審者対応訓練であった。「不審者役は校長先生にお願いします」と職員が無邪気に言ってきた。そもそも小学校では、いい役も悪い役もみんな校長に回ってくるんだな、これが。
ことわることもできず、そのままやった。いざ当日、私の胸はどきどき。私服にマスクに帽子というお約束のかっこうで教室棟に"侵入"する。そこで私が大声でわめき、担任外の教師が数名対応するという筋書きである。困ったのはわめくのが1年生の教室の前だったことである。あまり大声で迫真の演技をしすぎると、一年生がこわがって泣いてしまう。かと言って小さな声では緊迫感がない。適度な声であまり巻き舌も使わずわりとジェントルな不審者を演じた。台本では押し問答は約3分間。この3分の長いこと長いこと。汗びっしょり、胸はどきどき。終わって校長室に戻ったらどっと疲れた。あとで聞いたら1年生は不審者が校長先生だとは気づいていないということであった。よかった、これで1年生に嫌われなくてすむ、とほっとした記憶がある。この小学校は、私が子どもの頃過ごした砂川小学校と校舎の配置がうり二つである。おまけに職員室の正面が新館で三年、四年が入っているところもそっくりである。
小学校では校長が授業を見に行くと児童のやる気が増幅されるようである。
祭りでバンド
PTAの祭りでは職員と臨時のバンドを組んで出演した。私はエレキギターで参加した。当日の朝に「校長先生、この曲追加します」と言って楽譜を渡された。だいたい楽譜なんて読めないし、2時間でコード進行は覚えられない。仕方がないから、その曲だけ指揮者のまねごとみたいなことをした。
私が校長という仕事を割と楽しめた2年間であったかもしれない。
このN市の小・中連携事業には目を見張るものがあり、大いに感銘と刺激を受けた。
H市立S北中学校
平成21年−22年 59歳から60歳
私がN市から戻ってきて勤務した学校である。泣いても笑っても退職まで2年間である。
ここでの一年目の六月にあの前代未聞の新型インフルエンザによる一週間休校というのがあった。おかげで地域協議会の音楽会が中止になった。あのときはあとの授業のやりくりに大変困った
この学校では、N市仕込みの小学校と中学校との連携を実現すべく力を注いだ。いろいろなノウハウを投入しながらそれなりにうまくいったと思う。最後の年はかなり体力が落ちていたと見えて、退職の日を一日千秋の思いで待った。それほどしんどかった。
肺炎で入院
10月はじめの日曜にコスモスを見にいったら節々が痛い。私はインフルエンザだと思った。翌日の月曜日は、職員の研究授業で府教委から見に来られた。このときはすでに体調最悪で、授業を見ながら教室のうしろでしゃがみ込んでしまった。
膝から力が抜けるようで立っていられないのである。これは肺炎独特の症状らしい。呼気からは血のにおいがする。赤さび色のタンが止まらない。次の日は38.5度の熱が出て休んだ。しかし五日間寝ても熱が下がらない。
これはおかしいと思い、病院にいったらレントゲン写真を見た医者が血相を変えて「すぐに入院してください」と言った。左肺の3分の1が真っ白だった。私は「通院ではだめですか」と間の抜けたことを聞いたが絶対に入院が必要ということであった。結局、肺炎で11日間入院した。あと三日遅ければ命を落としていたらしい。
退院をし、仕事に復帰したが、学校にたどり着くのがやっとこさ。校長室で座っているのがやっとという状態であった。とにかくうとうとと眠い。なかなか体力が戻らず、欠席できる研修会はすべて欠席した。一ヶ月ほどは、校長室のソファに座っていることがほとんどだった。
三月まではふわふわと夢の中のように過ぎていった。
最後の卒業式は文字通り死力をふりしぼって乗り切った。
卒業式の次の日から、片道20キロのバイク通勤がとてつもなく遠く思えだした。「遠いなあ、遠いなあ。まだ着かないか」と思ってしまうのだった。
文字通り、私は36年間の教員生活で身も心も燃やし尽くしたのであった。
そして私は第二の生を受ける。