教員生活史1

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K市立三中

 昭和50年  24歳

大学卒業後、京都冷蔵に勤務していたが、2月に採用通知をいただいた。大変うれしかった。生涯で母親と抱き合ったのは、後にも先にもこの時だけである。 

K三中へ

枚方のアパートに下宿をさだめ、4月K三中へ赴任した。すでに養護学級担任と決まっての赴任であった。肢体不自由児という言葉をきくのも生涯ではじめてであった。

正直、当初はとまどいが私の精神を支配しており、養護学級担任として方向が見いだせないでいた。

私は、ある日本屋で脳性マヒの専門書をみつけた。私は、これだと思った。経験もない私は、これでやってみようと、方向を見つけた気がした。

私は、医学の専門書を熟読し、リハビリテーションの理論と方法を学んだ。大変、充実していた時期であった。哲学書しか読んだことのない私にとっては、明快に言い切る医学のすごさには、目から鱗が落ちる思いであった。今でも、脳性マヒの理論と、リハビリの理論なら誰よりも知っているという自負はある。 

一度でいいから、教壇に立ちたい

あこがれてなった教師、一度でいいから教壇に立ちたい、と狂おしいほどの思いをもつようになっていった。たとえ、自習でもいい、終礼でもいい、クラスの前に立ってみたい。しかし、周りの教師はどんな忙しいときでも、私に気を使って、クラスに行ってとは言ってくれなかった。

結婚

そして、3月に結婚することになった。2月に我々結婚します、と校長に言いにいったら、「もっと早く言ってくれないと」とぼやかれた。確かに2月というのは、人事の大枠が決まっているときである。そういうことは知らなかったから、迷惑をかけてしまった。

H第四中学校

昭和51年ー昭和58年  教員生活の青春時代

 

はじめての教壇

あれほど、恋いこがれた教壇にたつことになった。うれしかった。授業は手さぐりの状態でなんとか授業をおもしろくせねばと、歴史のエピソード集のようなものを買いあさっては読んだ。2年生の担任ももった。班作りがうまくいかず、同期の新任と夜遅くまで班作りを語り合ったりした。その後、色々な学校に行ったが、班作りを語り合う場面にはでくわさなかった。

 逆さま事件

これは、私の教員生活を語るのに忘れてはならないことである。2年4組の5時間目の社会の授業のことである。私が、後ろの戸をあけたら、クラス全員が机を後ろ向けにしていた、つまり、前後逆にすわっていたのである。「なんで逆にすわってるねん」といっても、首謀者らしき男子生徒がにやにやしている。おまけに、机の上には全員、英語の教科書を出している。押し問答をしたが、「英語の時間だ」ときかない。私は、猛烈に腹がたってきた。「英語だというなら、ずっと英語をだしておけ。今から社会の授業をする。意地でも英語を出しておくように」とことわってから、随のところを授業しはじめた。後ろの黒板はでこぼこがあり、ビニールテープのあともあるので、かきにくい。でも、いつもの倍以上の早さで、たしか4ページ近く進んだと思う。困ったような顔をしている生徒もいたが、こちらも若いとき。ただただ、怒りにまかせて授業を終えた。自分では、「勝った」と思ったが、このことが職員室でけっこう大きな話題となったのには驚いた。その後、こういうことは二度となかったので、担任に怒られたのであろう。でも、謝罪にも来なかった。もちろん、随のところは、補習はしなかった。その後、ここまで人を食った中学生には出会わない。猛烈に腹が立ったが、今となってはこういう中学生にもう一度会いたいとも思う。

 

はじめての授業参観

転勤して一年目、はじめての授業参観を迎えた。非常に緊張した。ある生徒が「先生に質問して困らしたる」と宣言していたのが、少々気になっていた。さて、当日の授業はアメリカの独立のところであったかと思う。一番前の男子生徒が、「先生、なんで、アメリカとカナダの国境は直線なんですか」と質問した。「おいおい、ほんまにやるか」と思ったが、わからない。後ろには、保護者が10人くらいいる。緊張がはしる。うろがくる。仕方がないので、調べておく、と返事をしてなんとか、その授業を終えた

鳥の巣事件

四中へ行って最初の年、2年3組でホームルームをしていたら、誰かが、私の頭を見て「鳥の巣みたいや」と言った。今は禿げているが当時は有り余るほど髪の毛があったのである。「鳥の巣や」と言った直後にスズメが教室にばたばたと飛び込んできた。あまりのタイミングの良さに大笑いしたことがある。

雨漏りする教室

当時でも四中の校舎はかなり傷んでいた。あるとき授業をしていたら、雨が強くなり大雨のようになってきた。すると、教室の前方窓際に、ドドドッと音を立てて雨水が落ちてきた。あれは雨漏りというようなかわいいものではなくて、天井に穴が開いたかのようだった。滝のように落ちる水音で、私の声はかき消されてしまうし、授業にはならなかった。そのあと、屋上の工事をしたのでこういうことはなくなった。今となっては貴重な思い出だ。

部活の顧問

四中では、フォークソングクラブと無線部の顧問になった。フォークソングクラブでは、私自らもギター一本もって文化祭に出演した。やりたいことはたいていみなやった気がする。私よりギターのうまい生徒が入部してきたときは少し焦った。

無線部は、最後の「ラジオ少年」たちが多数集まっていた。放送委員はたいてい無線部員がやっていたから、放送室は工作室になっていた。部品が散乱し、半田ごてや工具がおきっぱなしという状態であった。無線部員は、本当に人を食った連中ばかりであったが、皆かわいかった。あんなラジオ少年たちにもう一度会いたいものだ。

 

燃えた文化祭

文化祭となると、燃えた。新任仲間がたくさんいたから、負けられない。クラスで演目を話し合うときでも、相当私の意向が反映される結果となった。私も思いを押しつけるくらいであったが、そのかわり、実質監督から演技指導、音楽監督まですべてやった。一度なんか、「真夏の夜の夢」をやることになったが、夏休みにBGMを3曲ほど作曲した。詩は、岩波文庫のものをとり、それに曲をつけた。

体育祭の全員リレー

四中の体育祭の華は、全員リレーである。当時は若い職員が多く、毎年教師チームが出ることになっていた。前日くらいから職員室で声をかけて走るメンバーを募る。ところが、走る職員が足らないのが常で、若手は三回くらい走らされた。
私も三回ほど走った記憶がある。

職員チームがただのにぎやかしと思ったら大間違いで、本気で勝つ気まんまんだった。だから、私も気が抜けず、元々足は遅いのに必死になって走った思い出がある。

体育祭の応援合戦

体育祭のもうひとつの華は応援合戦であった。各ブロックは各学年一クラスずつで構成する。確か16組くらいまであったから、ブロックは16あったはずである。各ブロックとも趣向をこらす。応援合戦の最優秀賞が発表されるからみな熱が入る。担任としてはいてもたってもおれない思いであった。困ったのは、中央公園で勝手に下級生を集めて練習すること。あちこちから電話がかかるから、中央公園に行って解散させる。こちらが引き上げるとまた集まって練習する。まあ、教師泣かせの練習であった。
当日の応援合戦は各ブロック3分間。全部おわるまで1時間ほどはかかるというまさに体育祭の華なのであった。

夏のキャンプ

四中で最高に楽しかったのは、夏のキャンプであった。

行き先は、能勢か滋賀県の朽木村であった。クラスの出し物を二ヶ月くらいかかって決めて練習して小道具を作って段ボール箱に入れてバスに積む。これがなかなか楽しい作業なのであった。キャンプ場についたら、あいた時間にクラスで練習をする。

自炊の定番、カレーの味は忘れない。こげたご飯とあわさって少し苦くておいしかった。

食事が終わると夕焼けが見えて涼しい風が体を吹き抜けていく。

一場面、一場面が美しかった。

生徒と過ごしたり自然の中を歩いたりするのも楽しかったが、なんといってもキャンプファイアーで、教師チームがどんな出し物をするかを必死になって考えたものだ。

おしりをふるダンスなんていうのは当たり前で、私がやったのは骸骨のように踊りながら火の周りを一周する「ポキポキ踊り」これがしんどくて、踊り終わったら酸欠で死にそうになった。

今でも、森や林の中を歩くとあのときのキャンプが鮮明によみがえってくる。公私含めて生涯で最も楽しかった。

 

H市立S丘中学校

昭和58年ー平成4年 教員生活の壮年時代 

フォークソングクラブ顧問に

S中は新設校であった。どんなクラブを作るか、皆で知恵を出し合った。聞こえはいいが、皆自分のやりたいクラブを申し出て、ほぼその通り実現した。私は、フォークソングクラブを申し出て、できることになった。この学校は、私にとって円熟期ともいうときであった。ベースとドラムをクラブ費で購入し、私のエレキとアンプを使わせることにした。本格的なフォークロックバンドを目指した。

私がこの学校に来たとき、32歳だった。担任として、青春時代がくるものと思っていた。しかし、7歳も8歳も下の新任が大量に赴任してきたことで、私は、若い人に教える側、フォローする側へと立場がかわっていった。先輩の教員からそういう話をされたとき、ショックであったがだんだんそういうものなんだ、と自分の立場を受け入れられるようになった。

自分なりの授業を確立

私は、ある人の講演会を聞きにいって、人生観が変わったことがある。話し方がうまい。私は、桂米朝の落語を聞いて、間の取り方や、ぼけ方とつっこみ方を自分なりに工夫してみた。そして、自分なりの話術を確立した。授業中生徒を寝せたことがないというのが、私の誇りである。その後、教育委員会で人権の講師もつとめたが、寝る人を一人も出さなかった。こうして、話術と教材研究と生徒の心をつかむという三位一体の私の授業の仕方を確立していった。

PTAコーラス

学年の親睦旅行で、片山津温泉にいったことがある。そこで、箸をもって指揮者のまねごとをしていたら、幼稚園の先生のグループからやんやの喝采を浴びた。このことが、学校で評判になり、校長がPTAコーラスを見てくれないかと言ってきた。一回だけならということで、PTAコーラスの部屋に行ったら、結局足かけ5年間見ることになってしまった。月に2回。土曜日の午後1時半から3時半までである。これは、しんどかったけれど楽しかった。

H市立T田中学校

平成5年−6年  42歳

楽しかった授業

学校が変わって私の作り上げてきた授業が果たして通用するか心配であったが、生徒は今まで以上に授業を楽しんでくれた。私も、最も乗ってたときであった。あるとき、一年生の地理で「これができたら、博士やな」とか「これができたら教授やな」とかいって、発問してたら、生徒が予想に反して皆答えてしまった。とうとう教授の上は考えてなかったので大変困った。それから、こういう言い方はしなくなった。

ここは図書室から見える夕日が実に美しかった。男の私でも思わず物思いにふけってしまうほどロマンチックなのであった。ペギー葉山の「学生時代」という歌を思い起こさせる一幅の絵だった。H市で一番美しい風景と聞かれたら、私は一番にあの頃のT田中の図書室から見た夕日をあげる。


教員生活史2に続く