○第6章
リノリウムの床は蛍光灯の光を鈍く反射していた。
紐のとれかけたスニーカーが平らな床と擦れ、短い悲鳴を上げる。
どこか不自然に白々しい空間。待合室と呼ばれる場所。
祐樹は記憶を探りながら、かつて優美を送った病院に来ていた。
あまり病院というものに縁の無い彼は、言いようのない居心地の悪さを感じてしまう。
自然と足取りが速くなる。
「すいません、杉浦さんの病室ってどこですか」
入り口を入ってすぐの受付に向かって苛立たしげにそう言う。
面会時間はまだ過ぎていない。
「…杉浦さん? ちょっと待って下さいね…」
祐樹の声に気付いて出てきた看護婦がもう一度奥に引っ込んだ。
暫く小さな話し声が聞こえた後、先ほどの看護婦が出てきた。
「杉浦さんって、今日手術している方ですよね?」
「今日が手術だったんですか!」
「ええ…」
祐樹の剣幕に気圧されたように頷く。
「それで今どこに?」
その問いを発した時だった。
「…もしかして、猪之原祐樹くん?」
彼は不意に背後から自分の名前を呼ばれ、振り向いた。
そこには20代前後の見知らぬ若い看護婦が一人立っていた。
「え…。はい、そうですが…」
「そうなの、やっぱり…優美ちゃんは手術が長引いていて、まだ…とりあえず、案内してあげるからついてきて」
踵を返して歩き出す看護婦に彼は、何も言わずについていく。
「君の事は優美ちゃんから聞いているわ…今、彼女とても危険な状態なの」
後ろから彼女の表情を見ることは出来ない。しかし、その沈んだ声から心情を察することは出来た。
息苦しさを感じる、渡り廊下のような細長い通路。
「手紙が届いたのでしょう? …彼女、君のこと話す時とても楽しそうだった。本当に好きなんだなぁって思ったわ。学校でことを友達から聞くのををすごく楽しみにしてた。どんな些細なことでも、聞いた事はなんでも覚えていた。特に君の事は。…でも、自分の事はきっと君は知らないって言った時、悲しそうだった」
まるで懺悔のような独白。
「……」
何も言えない、言えるはずがない。
ここまで来なければ、何も分からなかった自分。
しかし、彼女はあの時の事を覚えていて、限られた話の中から、自分を知ろうとしていた。
やけに大きく聞こえる足音さえも彼の心を大きく掻き乱してしまう。
「ぅ……ぅうっ…うう……」
幾つかの曲がり角を曲がったところで誰かのすすり泣きのような声が聞こえた。
2人の歩く速さが自然と上がる。
しかし、看護婦の足取りが目的地まであと一つの曲がり角をのこし、止まった。
そのすぐ前を痩せた顎の細い医者が横切って行く。
その医者はこちらに気付いたのか、視線を向けそして、頭を力無く左右に振った。
その意味はその場にいる誰に対しても鋭く突き刺さる。
泣き声を殺し、看護婦は壁に寄りかかりながら四肢の力が抜けたようにズルズルと廊下にへたり込む。
それを見下ろしながら、泣く事さえも出来ない自分。
この人は俺より彼女の近くにいたんだ…。
自分は彼女が分からないから、いなくなっても何も感じない。
だけど……けど…
自分に手紙をくれた彼女。それを見守る看護婦。そして、何も分からず、ただなんとなく毎日を過ごしていた自分。
気が付くと、祐樹は走り出していた…。
エピローグ続く
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