○第4章
そこは果てが見えぬほどに広い草原だった。青々と茂った背の低い下草は、初夏のあの鮮やかな緑色をしている。
日の光は優しく、全てのものをいたわるかのようだ。
空は透き通った青色をしており、どこまでも広がっている。どこまでが空でどこまでが大地なのか…本当にちっぽけな疑問がわく。
もちろん、答えなど出るわけがない。けれど、そんな曖昧さが良いのだろう。祐樹は勝手に納得することにした。
…クスクス…
届きそうで届かない空を見上げていると、近くで小さな笑い声がするのに気が付いた。
慌てて視線を草原に戻し、辺りを見まわす。
すぐに、ある一点で視線が止まる。
そこには、一枚の白い布をどこかはかな儚げな感じのする身体に巧みに巻きつけた少女がいた。
「こんにちは」
意外にしっかりした声。そのまま、ゆっくりとこちらに歩いてくる。
巻き付けただけだと思っていた布は大きめのワンピースだった。まだ起伏の小さい少女の身体に引っかかるようになっているワンピース…天使みたいだ、と祐樹は思った。
「貴方はここへ何をしに…?」
手を伸ばせば届く距離で立ち止まると、ニコリと笑いかけながら尋ねてくる。
「…いや、気が付いたらここに…」
襟元から覗く白い素肌にどきどきしながら、正直に答える。
「ふうん……」
少し考えたような素振りをした後、
「じゃあ、いま暇? だったら、私に付き合ってよ!」
祐樹の手を取り駆け出す。
「ああっ…ちょっと!」
突然の事に足がもつれそうになりながらも、なんとか体勢を立て直し、走り続けた。
しばら暫くすると、草原から一変花畑へと変わる。
彼の息が上がってきた頃、彼女が足を止める。
「ちょっとお話しない?」
肩で息をしている祐樹に向かって少女は聞いた。
「まぁ、別にいいけど……」
呼吸の合間をぬって答える。
彼女は彼が落ち着くまで待ってから、ゆっくりと話し出した。
「まず、自己紹介からね。私は優美っていうの」
「俺は、猪之原祐樹」
「うん、知っているわ」
彼女は微笑みながらそう答えた。
彼はその言葉の指す意味がよく理解できず、首を傾げながら相手を見る。
しかし、優美はその説明をしては来なかった。どこか儚げな笑みを浮かべるだけ。
「…私、走るのって大好き。ううん、身体を動かす事かな。少し前まで心臓を患っていたの、だから動けなかった…」
いきなり、突拍子もない話をしてきた。瞳は悲しみに満ちている。その時のことを思い出しているのだろうか…。
「学校にも行けなかった。大好きな人がいるのに、会いに行けなかった。友達はみんな当たり前のように登校しているのに、私は出来なかった…」
優美は自分の後ろで手を組みながら、花畑の中をゆっくりと歩き出す。
祐樹はその後ろ姿を見ていた。掛けるべき言葉を探そうとしても見つからない。
「でも…それより辛かったのは、大好きな人に名前も知られずにいることだった。私のことをその人はきっと知らない。ううん、覚えていないっていう方が正解かな」
ふふっ、と自嘲気味に笑った。
「そんな…」
そこまで口にして、黙る。
そんな事ない、とでも言うつもりなのか…自分に分からないものを否定出来るのか…。
軽い同情心で答えれば、必ず彼女を傷つけることになる。
何と答えたら良いのか…。祐樹は彼女の顔を見ながらやりきれないものにさいなまれた。
優美は振り返って、そして、泣き出しそうな顔で笑った。
「最初は自分の目を疑ったわ…なんで貴方がここにいるのかってね。でも、分かった。貴方はまだ生きている…」
彼は彼女がなんの事を言っているのか分からない。頭が混乱する。
「さっき走った時、貴方は息を切らせていた…。ここにいる人は肉体なんて存在しない。息が切れるなんて事はないの」
「それって…」
何かがわかりかけて、口に出そうした。
しかし、それは妨害された。突然、澄み渡った空から優美の元に一条の光が降りてきたのだ。
光の柱に包まれた優美の頬を一粒の涙が流れていく。
手を伸ばせば届く距離にいるのに何も出来ない。
「…ありがとう。私の命を救ってくれて…。…大好きだよ、祐樹君。これからもずっと…」
彼女の存在が希薄になっていくのが、手に取るように分かった。
「俺は…俺は…!」
その瞬間、辺りは白い閃光に包まれた…。
第5章へ続く
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