第9話



 チュンチュン。

 小鳥のさえずりが聞こえる。
 カーテンから漏れる日差しがまぶしい。
 その光が一瞬遮られ、次の瞬間、部屋全体に広がる。

「今日もいい天気ぃ〜」

 間延びした、耳に馴染みのある声がした。
 その声の発信源は、俺に近づいてきた。

「祐一ぃ、おはようっ!」

 こういう光景はあまり馴染みがないが、とても清々しい。

「珍しいな、名雪が起こしに来るなんて」

 時計を確認すると7時前。
 学校のある日なら余裕でスキップしながら登校できる時刻だ。

「…おやすみ」

 俺は寝直すフリをした。
 あくまでフリだ。
 頭もスッキリと目覚めていた。

「わぁ、寝ちゃダメだよぉ〜」

 慌ててもやっぱり間延びした声で慌てる少女。
 起こす気があるのか疑わしくなるぐらい、力の入っていない肩の揺さぶり。

「起きてよぉ〜」

 名雪の顔が近づいてくる。
 そろそろ頃合か。
 名雪の顔が、俺の耳の真上に来た時、俺は勢いよく反転した。
 名雪の唇に、俺の唇が重なる。
 そのまま名雪の後頭部に手を回し、かなり濃厚なキスをする。
 息が続かなくなるまで続けた。
 やっと解放された名雪は、息を切らせていた。

「い、いきなり、き、き、キスなんて……、ずるいよ、祐一っ!」

 染まった頬は息切れのせいか、それとも…。
 俺は上半身を起こして、名雪の腰に手を回し、腕を掴んで名雪を引き寄せる。
 互いの息遣いが感じられる距離で…。

「お前に惚れなおしたんだよ」

 いつもは言えないような、非常に恥ずかしいことを言った。

「わぁ…、祐一、ものすごく恥ずかしいこと言ってるよ?」

 一層真っ赤に染まりながらも、まんざらでもなさそうな名雪。

「ま、たまには…、な」

 そのまま、再び二人の距離は近づいて…。

『朝〜、朝だよ〜、朝ごはん食べて、学校行くよ〜』

 目覚まし時計の音で、残り5cmで接近は中断された。
 名雪が気恥ずかしそうに時計を取り上げ、時間をみる。

「あ、映画に遅れちゃうよ〜」

 俺の胸板を押して、飛びのくように離れて…。

「ゆ、祐一も、早く着替えてねっ」

 そそくさと出て行った。
 かなり良い雰囲気だっただけに残念でならない。

「はぁ〜…」

 青春のため息を一つ吐いて、俺はハンガーを取った。








 朝食は食べずに、すぐに出かけることにした。
 そうしないと、上映時間に間に合わないからだ。
 もとより秋子さんは、この事態を予想していたらしい。
 朝食の代わりに、何やら細長い封筒を渡された。

「楽しんできてくださいね」
「はい」

 中に入っていたのは、レストランのディナー券。
 今日は一日、名雪と二人の時間を満喫できるわけだ。

「午前様もOKですからね」
「はい……って、ええっ!?」
「冗談ですよ」

 ニッコリと、こともなげに言う秋子さん。
 この人にはかなわない。
 あ、そうだ。

「秋子さん」
「何です?」

 夢で見たこと。
 いや、見せてもらったこと。
 それに対しての、これが俺の答えだ。

「猫を飼っても、良いですか?」
「了承(一秒)」

 反対されると思っていたわけではなかったが、了承してもらえるとも思っていなかった。
 あるいは、秋子さんは知ってるのかもしれない。
 俺が思い出したことを。

「祐一っ、送れちゃうよ〜」

 玄関から、靴を履き終えた名雪の催促が聞こえる。
 確かに、そろそろマズイ。

「じゃあ、行ってきます」
「いってらっしゃい、祐一さん」










「名雪、あと何分だ?」
「まだ、大丈夫だよ」

 名雪の大丈夫はアテにならないが、まぁ、走っていれば大丈夫なのだろう。

「それにしても、よく起きられたな」

 さっきのことを持ち出すと、途端に赤くなった。
 思い出して、恥ずかしくなったらしい。

「………」

 耳まで真っ赤にして返事がない。
 ちょっと意地悪しすぎたか。

「…目覚まし時計のおかげだよ」
「え?」
「早く起きられたのは、目覚まし時計のおかげなんだよ」


 まさか…。


「まさか、またお前……あの目覚ましを使ったのか?」
「あれだったら、絶対に起きられるんだもんっ」

 得意満面な顔をして言う。
 今度は俺が恥ずかしくなった。

「何度も使うなって言ってるだろ!?」

 多分、俺も赤くなっていると思う。
 顔が熱い。

「えへへ〜」
「えへへ〜、じゃない!」

 そんなやり取りのなか、俺はある疑問を抱いた。
 それは、「あの墓は何処にある?」という疑問だ。
 水瀬家の庭であることは間違いないのだが、詳細な位置が分からない。
 それに、子供の俺の目から見ても小さかったものが、今の俺に分かるだろうか。
 探して、見つけることが出来るだろうか。
 出来るとは思うが…。
 俺は名雪を見つめた。
 訊こうかと思った。
 でも…。

「私の顔、何かついてる?」
「目、鼻、口」
「あたりまえだよぉ〜」

 訊けなかった。
 薄情な人間に見られるとか、そういうことは考えなかった。
 ただ、名雪のなかで整理がついているのか、それが分からなかったからだ。
 いや、それは言い訳で、俺自身が意気地がないんだ…。
 訊く勇気がないんだ。
 だから…。
 代わりに、別のことを訊いてみる。

「名雪、何処に行く?」
「え?」

 突然の問いに、キツネにつままれたような顔をする名雪。
 が、すぐにニッコリと笑いかける。

「祐一、おかしなこと訊くね?映画だよ?」
「いや、そうじゃなくてだな…」

 夢を言い訳にするわけじゃない。
 だけど、明確にデートコースを決めていなかった。

「今日、映画の後はどうするかってことだ」

 いや、一つだけ、絶対に行こうと決めている場所があった。

「百花屋でイチゴサンデー食べて〜、商店街でお散歩して帰るよ?」

 そう、いつもはそんな感じ。

「でも、ここに駅前のレストランのディナー券がある」

 秋子さんに貰ったそれを、ヒラヒラと風に晒す。
 秋子さんは「午前様でもOKですよ」なんて言っていたが、そこまではしない。
 というか、出来ない…。

「じゃあ、結構時間が余っちゃうね…」

 走りながら思案顔という器用なことをしながら、名雪は言った。

「そこで何だが…」

 朝起きて、思ったこと。

「名雪、ペットショップに行かないか?」

 いつもとは言わないまでも、頻繁に行っている場所。
 だが、いつもショーウィンドウの外から眺めるだけ。
 ガラス越しに、戯れる小さな可愛らしいモノを眺めるだけ。
 いつも、寂しそうな横顔に胸が痛んだ。

「………」

 名雪は言い出しかねた。
 帰る間際、なかなかショーウィンドウから離れられない。
 まだ見ていたい、その思いに耐えられない。
 自分のアレルギーで、自分の好きなものに触れることも出来ない。
 これほど切ないことはないと思う。

「今日はな…」

 でも…。
 今日は違う。

「猫を一匹、買おうと思うんだ…」

 上手い言い回しが思い当たらず、それだけを口にした。

「え…、祐一、今何て…?」

 どうやら、信じられない言葉だったらしい。
 いつもは、泣き顔の名雪を連れ歩くのがイヤだという理由で猫から遠ざけさせている俺。
 そんな俺が言う言葉ではないのも確かだ。

「猫を、買おう」

 そう言った次の瞬間、俺の視界は青い毛のようなもので遮られた。
 名雪が抱きついてきたからだ。

「ば、バカ、放せ!」
「祐一ぃ〜♪」

 体を左右に振って引き離そうとするが、首にしっかりと回された腕で、なかなか放れない。
 胸板に当たる柔らかい感触が気持ち良いやら、首が絞まって苦しいやら、何とも言いがたい。
 地獄と天国を一緒に見ているような感じだった。

「え、映画に遅れるぞぉぉ…」

 何とかそれだけ言うと、名雪は飛びのいて、俺の手を引いて走り出した。

「わ、忘れてたよ〜」

 セリフとは裏腹に、ウキウキという擬音が見えるほどに嬉しそうな声だった。

「映画が終わったら、まずは猫屋さんに行こうねっ♪」
「ペットショップ、だろ?」

 苦笑しながら応える。
 猫を買うことについては、秋子さんの了解も取った。
 あんな夢を見た後だから、さすがの俺もこんな気持ちになったのかもしれない。
 でも、たまにはこんなのも良いかもしれない。
 鼻を真っ赤にして泣き笑いをする名雪をつれて歩くのも良いかもしれない。
 周りの人間がどう思おうと構わない。
 俺は、今の俺に正直に、一生懸命に生きる。
 そう決めたんだ。
 俺のために。
 名雪のために。
 そして、生きられなかった小さな命のために。

 



 続く

                                       エピローグへ続く



                     
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