第8話



 眠れずに、夜が明けた。
 きっと俺の目は、かなり赤くなっていることだろう。
 夜、眠れずに、ただただ泣き続けた。
 喉が痛くなるほど咳き込んでは、また泣いた。
 全身の水分が抜けるほどの涙を流して、最後の方は、声だけで泣いた。
 呼吸が出来なかった。
 気を抜けば舌を噛み切ってしまいそうに、あごが震えた。
 泣き疲れて眠られれば、どれだけ良かっただろう。
 でも、それは許されなかった。
 泣いた疲れが苦痛となって、俺の感覚を鋭敏にさせた。
 全身、肌という肌が粟立って、五感は研ぎ澄まされた。
 外の寒々しい風音、枕元の時計の秒針の音、遠くで吠える犬の声が、普段より大きく聞こえた。
 一つ一つ、全てが身を突き刺そうとする鋭利な針のように、迫ってくる感じがする。
 焦燥感、絶望感、疲労感…。
 すべての負の感情に支配されそうになる。
 耐え切れない。
 口から内臓を引っ張り出されるような吐き気に耐えかねて、胃液が逆流し始めるのが分かった。
 ベッドから立ち上がり、下のトイレに行こうとする。
 さっきまで泣いていたのが、これほど体力を消耗するものかと思い知った。
 脚がふらついて、壁に寄りかかりながらでないと、まともに歩けなかった。

   洗面所、鏡の中に移りこんだ幼なさの残る顔は涙と鼻水にまみれて汚れた、ヒドイ顔をしていた。
 蛇口をひねると、凍りつくのではないかと思うほど冷たい水が流れ出る。
 両手ですくうと手の先から全身へと、電流のように寒さの痺れが伝わる。
 そのまま顔をつけるのを躊躇ってしまうような冷水。
 勇気と反動をつけて、顔にぶつけるように当てた。
 あまりの冷たさに眠気は吹っ飛んだ。
 温水の蛇口をひねれば良いのに、あえて冷水のみで顔を洗った。
 冷たい水が苦悩も疲労も、涙と共に洗い流してくれるような気がした。
 そんな複雑なことを幼い自分が考えてやっているとも思えない。
 多分、無意識のうちにやっていたのだろう。
 今も、こうすると気分が晴れるような気がする。
 涙の跡が消えたのを鏡で確認して、今へ向かった。
 冬の朝、まだ外は暗いのだろう。
 リビングから漏れる光が、いつもよりも温かく感じられた。
 何かを刻む包丁の音、何かを炒めるフライパンの音。
 かすかに漂ってくる味噌汁の匂いで、自然と腹が鳴る。
 改めて、空腹感を覚えた。
 自然にリビングへの扉を開いた。

「おはようございます」

 すんなりと、出た言葉。
 さっきまでの感情は何処へ行ったのかと、我ながら呆れてしまう。
 でも、とってもすっきりしていた。
 悲しみは涙と共に、多少は流れ出てくれたようだ。
 演技なんかしなくても、自然な風を装える。

「おはようございます、祐一くん」

 そんな俺の心中を知ってか知らずか、秋子さんの笑顔の挨拶。
 これで、本当にすっきりした。
 新しい一日を迎える、心の準備が出来た。

 いつもより少し早い朝食を食べ、名雪が降りてくるのを待つ。
 だが、起きた、いや、降りてきた時間が結構早かったせいもあって、なかなか降りてこない。
 食欲が満たされると、今度は睡眠欲が襲ってきた。
 泣き通しでマトモに眠っていなかったから、当然といえば当然だ。
 テレビを見ていると、だんだんとまぶたが下がってくる。

「もう少し、寝てきたらどうです?」

 そんな俺に気が付いて、秋子さんが声をかける。
 その言葉に甘えて自室にもどり、ベッドに横たわった。
 間もなく、俺は眠ってしまった。
 自分が眠っているのを見るのは、何とも奇妙だ。
 俺の意識は、子供の俺の身体を離脱し、独立した状態になった。
 といっても、物に触れるわけでもないし、幽体離脱したような状態になったわけだ。
 本当に夢って何でもアリだな、などと呆れていると、半開きの扉に影が現れた。
 小さな影だ。
 その影は部屋に侵入し、ベッドに飛び乗った。
 猫だった。
 何をするでもなく、まだ開いたばかりの大きな丸い目で少年、子供の俺の顔を見つめていた。
 アゴに頭を摺り寄せてみたり、胸の上で転がってみたり…。
 子猫が親猫にするように、少年に甘える猫。
 しばらくそうしていたかと思うと、不意に少年の顔をなめ始めた。
 猫のザラザラした舌の感触でも、子供の俺は目を覚まさなかった。
 うざったそうに寝返りをうって、また寝息をたて始めた。
 それで満足したのか、猫は部屋から出て行った。
 出る直前、一度だけ振り返り、弱々しい泣き声をあげた。

 次に起きたのは昼時だった。
 リビングに行くと、秋子さんと名雪が隅の方にしゃがみ込んでいた。

「元気ないねぇ〜…」

 心配そうな名雪の声。
 秋子さんは答えない。
 俺が降りてきたのに気付いた秋子さんは、俺のほうに振り返り、小さく首を横に振る。
 どうやら、もうダメみたいだ…。
 死の宣告を受けても、俺は平静を保っていた。
 決して吹っ切れた訳ではない。
 そんなこと、子供俺には出来ない。
 でも、泣き出しもせず動揺もせず、ゆっくりと猫の方に歩み寄る。
 俺の姿を見つけた猫は、ヨタヨタと歩み寄ってくる。
 壊れ物を扱うように抱き上げる。
 腹水で紫色にふくらんだ腹が痛々しい。  でも、猫は精一杯、俺に甘えた。
 人差し指をミルクに浸して猫の前に突き出すと、ペロペロとなめた。
 名雪がうらやましそうにそれを眺めていた。

「お前もやってみたらどうだ?」
「うんっ」

 嬉しそうにうなずく名雪。
 名雪が同じことをすると、最初は躊躇っていたが、すぐになめ始めた。
 くすぐったいのか、名雪がクスクスと笑う。
 猫も心なしか、穏やかな表情を浮かべているように見える。
 やがて、ゆっくりと目を閉じて、寝息をたて始める。
 起こさないようにゆっくりと、下にホッカイロを入れたタオルの上に寝かせる。
 その時フッと、猫の気配が出て行くような感じを受けた。
 …ような気がする。
 その時に「もう、助からない…」と分かっていたのかもしれない。
 子供の俺は虚空を見つめていた。
 しかし、目はうつろではなく、ハッキリと見開いていた。
 まぶたに沢山の涙を溜めながら、それでもシッカリとした目で、涙がこぼれないように上を見つめていた。







 その日の夕方、猫は息を引き取った。  俺たちが見守る中、決して苦しむことなく、眠るように逝った。
 その直前、俺たちが驚くほどの量のミルクを飲み干し、お腹をいっぱいにして死んでいったのだ。
 その顔は安らかで、前足を伸ばして合わせている。
 まるで祈りを捧げているような、俺たちに感謝をして手を合わせているような…。
 仏様のように穏やかな、優しい顔をしていた。
 最初、俺は涙を堪えるつもりだったと思う。
 名雪が泣いてしまっても、俺が慰めてやるために…。
 でも…。
 そんな気遣いは、無用だったのかもしれない。
 名雪は、俺以上の涙を流しながらも、何故か笑っていた。
 いや、微笑みかけているのだ。
 目の前の、小さなモノに…。

「なんで笑っているんだ?」

 思ったことを、正直に訊いた。
 俺には分からなかったからだ。

「だってね…」

 名雪は鼻声で応えた。
 顔は涙でぐしゃぐしゃだったが、聖母のように優しい。

「チャチャは、イタイとも思わずに、眠りながら死ぬことが出来たんだよ…」

 ヒックヒックとしゃくり上げながら、でも、微笑を絶やさず続ける。

「死ぬのはツライけど、でも、こんなに幸せそう…。だから、これは嬉し涙なの…」

 そのあとはもう、続かなかった。
 秋子さんの胸にすがりついて、嗚咽を漏らしていた。
 耐え切れなくなったものが、名雪の頬を伝っていく。
 俺は名雪の強さ、いや、優しさというものを思い知らされた。
 ショックじゃないわけはなかった。
 それでも「良かった、嬉しい」と言える名雪は、とても強い女の子だ。
 そんな彼女だからこそ、俺の心の氷を溶かすことも出来たのだろう。
 そんな彼女だからこそ、俺は心惹かれるのだろう。
 名雪が落ち着いてから、俺たちは猫、いや、チャチャの亡き骸を抱いて庭に出た。
 穴を掘って、そこに亡き骸を納め、上から優しく柔らかい土をかぶせた。
 こんもりと盛り上がったそこに、エンピツでえぐった汚い、でも、心のこもった墓石代わりの木の板を立てかけた。
 その表には「チャチャの墓」と子供の俺の字で書いてあった。
 そして、その裏には、こう書いてあった。
「また会おうね」と。
 名雪の字で書いてあった。
 そういえば、俺は生前、猫を「チャチャ」と呼んでやったことがない。
 恥ずかしかったから、というのが一番の理由だ。
 でも、俺は墓の前で手を合わせ、こう念じた。

「また会おうな、"チャチャ"」
 



 続く

                                       第9話へ続く



                     
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