第7話



 その翌日、奇跡のようなことが起こった。
 猫が、目を開けたのだ。
 生まれた時の保護膜のようなものが取れて、完全に目を開いたのだ。
 信じられなかった。
「もう、長くは生きられない」と、秋子さんから聞かされた次の日である。
 成長している。
 名雪はもちろん、俺も大喜びした。
 もしかしたら、もしかしたら…。
 俺は猫を抱き上げ、腹を見つめた。
 だが…、そこは、昨日と変わらず、紫色だった。
 一瞬にして、どん底に引き戻された。
「もう、長くはない」という現実が、再び俺の前に突き出された。
「チャチャが目を開いたぁ〜」と喜ぶ名雪を見ながら、俺は愕然としてた。
 秋子さんも、名雪に同調しながら複雑そうな顔をしていた。




 今日はもう、猫を獣医に連れて行くことはないみたいだ。
 それはつまり、医者も匙を投げたということ。
 助かる見込みはないということ。
 それを……名雪は知らない……。
 秋子さんがそれを望んだから……。
 いや、俺がそれを選んだから……。
 このまま隠し通して良いのだろうか。
 それとも、正直に打ち明けた方が良いのだろうか…。
 でも、そんなことをしても良いのだろうか?
 そもそも、何で俺なんかに決定権があるんだ?
 秋子さんの言葉を、気持ちを、俺が勝手に誤認しただけじゃないのか?
 なら、言うべきじゃない。
 名雪が気付くまで。
 秋子さんが言うまで…。




 時間は残酷にも、止まることなく過ぎていった。
 時計が回るのが怖い。
 時計の秒針がチクタクと音を立てて回っていくのが怖かった。
 いずれ来るべき時が、刻一刻と迫ってきていた。
 いつもなら、何もせずに手持ち無沙汰な時間を過ごしているはずだ。
「夕飯はまだか?」と文句を言いながら、一向に進んでいかない時計を恨めしげに見つめているはずだ。
 なのに、今日は違う。
 いつもの二倍、いや、三倍以上の速さで時間が流れていく。
 さっき朝食を食べたばかりなのに、もう昼食の時間になっていたりする。
 夕食もまた然りだ。
 意識ではあっという間に感じても、腹は鳴るから不思議なものだ。
 こんな時にでも、生き物は腹を空かせるらしい。
 それは、俺が生きているから。
 生きているから、何かを食べなくちゃいけない。
 猫のたくさん、ミルクを飲んだ。
 生きているから。
 生きていくために。
 なのに、この小さな命のともし火は、風前の蝋燭のように消えようとしてる。
 こんなことってあるのか!?
 こんな不条理なことって、あって良いのか!?
 子供の俺は、何を考えているのか、ただ亡羊とした感じで、名雪と猫が戯れる様子を見ていた。
 そういえば、いつの日か、香里が言っていたな。

「あの子、何のために生まれてきたの!?」

 何のためだろう。
 栞は奇跡的に助かって、今では香里と毎朝、仲良く学校に通っている。
 その様子は、誰の目から見ても、とても幸せそうに見える。
 そうだっ!
 幸せになるために生まれてきたんじゃないのか!?
 なら、俺のやるべきことは決まっている。
 あの猫を「幸せに生きさせてやること」…。
 今の俺なら、それが分かる。
 でも、子供の俺には分からない。
 伝える方法もない。
 ただただ、途方に暮れるしかなかった…。




 その日も昨日と同じく、ただただ猫と名雪を見守っているしかなかった。
 そんな俺の様子に気付いてか、秋子さんがたまに声をかけてくれた。
 仕事は数日の間、休みを取ったらしい。
 有給休暇が溜まっていたそうだ。
 相変わらず、どういう業種なのかは分からないが、そういう都合の利く職場らしい。
 だから、秋子さんは家にいた。
 俺と名雪だけしかいない時が、とても心配なのだろう。
 ただ、なす術がなかった。
 秋子さんがそうなのだから、なおさら、俺に出来ることなんてない。
 肉体と意識を持つ子供の俺、意識だけの俺、二人揃ってただただ呆然としていることしかできなかった。
 ミルクを温めてやったりするのは秋子さんか名雪だ。
 俺たちは何もしないで、その場に居合わせているだけだった。
 部屋に戻ることもできなかった。
 いつ、「その時」が来るのか分からなかった。
 情けなくて、歯がゆかった。
 そんな俺の胸中とは裏腹に、猫は意欲的に動いた。
 テーブルの下に入っていった猫を捕まえようとして、テーブルに頭をぶつける名雪。

「うう〜、いたいよぉ〜」

 頭を抑えて目を潤ませる名雪。
 それを見ていると、胸に疼きのようなものが走る。
「本当に黙ったままでいいのか?」という疑問。
「何か、やらなくちゃいけないことがあるんじゃないのか?」という焦り。
 それらが胸の中で渦を巻きながら、次第にしこりとして沈殿する。
 肺を下の横隔膜から押さえつけられるような息苦しさ。
 熱を出した時のように、頭がボーっとする。
 熱く、真っ白になった頭は、それ以上の思考を拒否した。
 何も考えられない。
 何も考えたくない。
 考えることを止めてしまったら、どんなに楽になるだろう。
 目の前で起きていることは、すべてが嘘で、今見ているのがすべて夢なら…。
 朝起きて、朝食を食べながら冗談でも言うように話して、笑い飛ばせたらどんなにいいだろう…。
 だけど…。
 これが紛れもない現実であることは、分かっている。
 頬をつねることはできないけど、この胸の痛みが教えてくれる。
 これは現実。
 俺が見ている夢、そしてそれは俺の実際の過去…。
 夢でありながら現実。
 こんなスッキリしない、奇妙な世界だけでも気持ちが悪いのに……。
 目の前に広がっている「過去」は、悲しい「過去」。
 救いがないと突きつけられている「過去」を、手出しもできずに見せられるだけ。
 もう、何も考えたくない。
 考えたくないはずなのに、考えてしまう。
 この後は……どうなるのかを……。
 今、俺が目を覚ましてしまえば、この悲しい夢も終わらせることができるだろう。
 もう二度と考えなければ、こんな夢を見なくても済むだろう。
 それでも…、俺はそれを選ばなかった…。
 もう逃げたくなかった。
 そうやって逃げ続けて、俺は名雪を傷つけた。
 今、目の前の何もしらない名雪は、きっと傷つくだろう。
 もう、同じ過ちは繰り返したくない。
 そんなこと、俺自身が許さない。
 だから俺は、この夢の結末を見届けようと思った。
 確かに今の俺には何もできないけど……、名雪のそばにいよう。
 それだけは…俺にだってできる。
 いや、俺にしかできないことだから…。




 その日はそのまま過ぎていった。
 子供の俺は、相変わらずだった。
 食事中に猫をテーブルの上に乗せる名雪、それを注意する秋子さんを見るともなしに見ながら、食事を口に運ぶ。
 その姿は、とても情けなく映った。
 だが、まだまだ小さいその心に、必死に溜め込んでいるものがあるのだろう。
 必死に吐き出さないようにしているものがあるのだろう。
 自分のことながら、とても健気に見えた。
 その晩、また俺は泣いた。
 名雪に聞こえないように、前の晩よりも深く布団をかぶって。
 部屋に嗚咽の音が響いていた。

 



 続く

                                       第8話へ続く



                     
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