第6話



 いつもの公園で、いつものように日が暮れるまで、いつものように名雪と遊んだ。
 二人きりだったような、あゆも入れて三人で遊んだような気もする。
 変な話だが、この記憶がすごく曖昧だ。
 さっきまでハッキリと、明瞭に流れていた時間の流れが、その部分だけに歪みがあった。
 古ぼけたテレビのように、映像にノイズの縦線が混じっているような感じ。
 正直、ここが公園なのかも確証はない。
 自分で確認できないからだ。
 ただ、そこが公園であるということを認識させる決定的な証拠があった。
 それは…猫の捨てられていた草むら。
 さっきの夢の通りならば、あの草むらは公園の草むらだったはずだ。
 そして、その草むらが目の前にあった。
 そこだけモザイクが晴れたように、ハッキリと見えた。
 霧の中で、その低い常緑樹の緑だけが映えていた。
 だから、ここは公園だ、と思う。
 その場所で、何時間も遊んだ。
 雪合戦をしたり、かまくらを作ったり…。
 栞がいたら羨ましがるだろうな。
 子供の俺には、今の俺のすね辺りまでしかない雪も、膝丈まである。
 かじかむ手で雪だまを作っては投げる。
 俺の投げた雪だまは、ことごとく目標にあたる。
 そのたびに、「うう〜」という呻き声みたいな声が聞こえる。
 そして、気の抜けた放物線を描く雪だまがあさっての方向に飛んでいく。

「名雪〜、石を入れるな〜!」

 子供の俺が叫ぶ。

 …悪質だ…。

 そんなことを何時間もやっていた。
 いつの間にか日も暮れて、俺たちは家路に就いた。
 道すがら、川岸の手すりに積もった雪をかき集めながら、名雪が飛び跳ねる。
 軽やかに宙に飛び上がり、くるくると踊りながら歩いていく。

「名雪、迷惑だぞ」

 と子供の俺が言うと、にっこりと微笑みかけて、続ける。
 口では不平を言いながら子供の俺は、そして、俺はその光景に魅せられていた。
 その雪の妖精の舞に。










「あれ?」

 無事に水瀬家に帰りついたが、秋子さんはまだ帰ってきてはいなかった。
 もちろん、玄関は鍵が掛かっていて、中には入られそうもない。
 しかし、郵便ポストに鍵が入っていたので、何とか入ることができた。
「でかしたぞ、名雪」と頭を撫でてやると、少し照れくさそうにして名雪が微笑んだ。
 中に入ると名雪は、真っ先に猫の姿を探したが、何処にも見当たらなかった。
 多分、秋子さんが連れて行ったのだろう。
 名雪は残念そうだったが、少し眠いというので、秋子さんが帰ってきたら起こしてくれるよう俺に頼んで、自分の部屋に戻った。
 俺は何となく手持ち無沙汰で、冷蔵庫から飲み物を出してきて、それを飲みながらテレビを見ていた。
 得に見たい番組もなく、適当なバラエティー番組を見ながら、ダラダラと時間を消費した。
 そうこうしているうちに、玄関が開く音がした。

「ただいま」
「おかえりなさい」
 玄関まで出迎えに行く。
 秋子さんは右手に籠のようなものを持っていた。
 中で、何かが動いていた。

「猫、ですか?」

 それは猫だった。
 いささか、ぐったりとしていた。

「ええ…」

 答える秋子さんの表情は、疲れからか、さえないように見えた。

「名雪はいますか?」
「いえ、上で寝てますよ」

 起きていたら、真っ先に降りてくるはずだ。
 よほど疲れたのだろう。

「なら、丁度良いですね…」

 言葉とは裏腹に、あまり良くなさそうに秋子さんが言う。

「祐一くん、ちょっと良いですか?」
「何です?」
「ちょっとだけ…、お話をしましょう?」
「え、ええ、良いですけど…」

 珍しい、秋子さんからの申し出に一瞬戸惑ったが、言われるままにリビングに戻った。







 テレビは消した。
 何だか、真剣に聞かなくてはいけないような話だと感じたからだ。
 秋子さんに入れてもらったコーヒーをすすってから向かい合う。

「猫のことなんですよ…」

 切り出したのは秋子さんだ。

「今日、この子を、あるところに連れて行きました」
「ええ」

 多分、用事というのはこれのことだろうと予想はしていた。

「里親探しですか?」

 やはり名雪がいる以上、ここで猫を飼うわけにはいかないだろう。
 優しい秋子さんのことだから、里親探しに行ったのだと思った。

「いえ…」

 だが、それはキッパリと否定された。
 じゃあ、何処なんだ?

「実は…、獣医さんに連れて行ったんです…」
「そうなんですか…」

 何だか、あっさりと納得してしまった。
 拾い猫は、いや、猫に限らず、外で拾ってきた動物には病原菌が付いていることがある。
 それは人体に害をもたらすものだったり、そうでなかったりする。
 そこまで考えて、ハッとした。
 秋子さんの浮かない表情の理由が分かったからだ。

「…何か、病気を持っていたんですね?」

 恐る恐る、腫れ物に触るように言った。
 確信しているが、認めたくなかった。
 たった数日の間で、俺にも情が移ったらしい。
 ただでさえ、多感な少年時代だ。
 動物に触る、動物を飼うということが少なかったのもあって、情が移るのも早かったのだろう。
 両親と離れているということも少なからず関係していたのだろう。
 冬休みに水瀬家に来ると、両親は俺を預けて仕事に戻ってしまう。
 そして、冬休みも終わりのころに引き取りに来る。
 少なからず、寂しさは感じていたように思う。
 嫌な間が過ぎて、秋子さんの口から言葉が漏れた。

「いえ、ちょっと違います…」

 それは、否定を示す言葉だった。
 だが、それは病気じゃない=健康という意味ではなかった。
 秋子さんは「ちょっと違う」と言ったのだ。

「ちょっと違うって、どういう意味ですか?」

 聞きたくない。
 聞きたくないが、聞かなければいけない。
 だからこそ、秋子さんは俺を呼んだのだ。

「それは…」

 一息置いて、言葉を続ける。

「この子は……未熟児…なんです…」

 籠の中から猫を取り出して、テーブルの上に乗せる。
 猫を仰向けにして、下腹あたりを示しながら秋子さんは続ける。

「ほら、ここが紫色でしょう?健康な子猫なら、普通はピンク色のはずなんです…」

 悲痛な表情で秋子さんは目を背けた。
 秋子さんがこんな顔をするのを見るのは初めてだ。
 それだけに、ことの重大さが痛いほどに感じられた。

「この子は、親猫に捨てられた…のだと思います…」

 自然界に生息する哺乳動物は、一回の出産時に数匹の子供を生む。
 犬や猫も例外ではない。
 しかし、その数匹の子供の中で、ほとんど必ずと言っていいほど、未熟児が発生してしまう。
 親はその子を捨てるか、自身の糧とする――つまり、捕食する――かの、どちらかの方法で処理する。
 でも、それは決して、好んでするわけではない。
 動物に人間並みの親子感情があるかないかは分からないが、子供を殺すことを苦にしないはずはない。
 でも、外敵に追跡されないためにだとか、そういう理由で子供を殺す。

「祐一くんが、この子を拾ってきた場所……、そこで捨てられたのね…」

 とても、とても悲しそうな目をする秋子さん。
 胸が締め付けられる思いだった。

「もし祐一くんが拾わなければ、この子はそこで……」

 それ以上は言葉にならなかった。
 秋子さんの目から、一条の筋が伝った。
 リビングの電灯を受けて光ったそれは…涙だった。
 優しくて悲しい、母親の涙だった。

「でも、この子は拾われた…」

 また一筋、涙が流れる。

「祐一くんに拾って貰えた…」

 泣きながら、嬉しそうに秋子さんは言う。

「元々死ぬと決まっていた、だから、そう長くは生きられないかも知れない、でも…」

 一言一言、言い含めるように言う。

「この子は祐一くんに拾われて、まだ生きています…」
「ええ…」

 俺も、まぶたが熱くなった。

「だから、最後まで…、うちで飼いましょうね」

 笑いながら、双眸からボロボロと涙が溢れていた。
 つられて、俺も堪えていたものが堰を切った。
 目から溢れる洪水が止まらなかった。
 そんな俺を秋子さんは、優しく抱きとめた。

「祐一くん」

 そのままの体勢で、囁きかけられた。

「今言ったこと、名雪には黙っていてもらえますか?」

 その言葉に、強要はなかった。
 あくまで穏やかな口調だった。
 選択権は俺に委ねる、そんな感じの言い方だった。

 俺は…

「分かりました…」

 言わないことを選んだ。
 この選択は残酷かもしれない。
 もちろん、子供の俺にそれが分かるはずもない。
 いや、分かったからといって、どちらを選んで良いかも分からない。
 今の俺にだって分からない。
 秋子さんなら知っているかもしれないが、それは聞いてはいけないことだ。
 どうすればいいのか、その答えは自分で見つけなくちゃいけないんだと、俺は思った。










 それから俺は、名雪に何も言わなかった。
 名雪が猫にベッタリでも、注意しないようにした。
 いや、できなかったんだ。
 そんな俺の様子に気付いてか、訝しげな表情で名雪は聞いてくる。

「祐一、怒んないね?」
「呆れて何も言えないだけだ」

 のどの置くが詰まりそうになりながら、それだけ言うのが精一杯だった。
 名雪の前では虚勢を張り続けた。
 秋子さんはいつもと変わらずにいる。
 流石と言ったところだ。
 俺は夜、ベッドに入って、涙で枕を濡らした。
 毛布を頭からかぶって、必死に声を殺して泣いた。
 目の奥にタンクがあるのなら、それが枯れるまで泣いたはずなのに、嗚咽が止まらなかった。
 子供の俺の小さな心と身体は、名雪の分の悲しみも必死に背負おうとしていた。
 それは独りよがりだと言う人もいるだろう。
 でも、子供の俺は真剣だった。

 と、そこへ…。

「何を泣いているの?」

 少し寝ぼけた声がした。

「え?」

 俺はビックリした。
 そこには、とっくに寝たはずの名雪が立っていた。


 心配そうに顔を覗き込んでくる。

「な、何でもないよっ!」

 名雪に顔を、泣き顔を見られたくなくて、毛布をかぶる。
 そんな俺を名雪は、「よしよし」と優しく撫でてくれた。
 半分眠っているのかもしれない。
 そんな名雪が嬉しくて、でも、胸にズキズキと痛みが走るような気がした。

 



 続く

                                       第7話へ続く



                     
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