第5話



「・・・はい、はい、宜しくお願いいたします…」

 リビングへ行くと、秋子さんが珍しく電話をしていた。

「では、のちほど…」

 受話器を置いた秋子さんは、これまた珍しく、疲れきったような溜息をした。

「おはようございます…」

 そんな秋子さんの様子に、俺は無意識のうちにおずおずと挨拶をしていた。
 でも…。

「おはようございます、祐一君」

 そんな様子は少しも見せない、いつも通りの秋子さんの笑顔。
 不思議な安心感がある。

「朝食は和食と洋食、どちらが良いですか?」
「じゃあ、和食で」

 いつの間にか俺も、いつもの調子に戻っていた。
 しばらくすると、味噌汁の香ばしい香りが漂ってきた。
 すると、今まで俺の腕の中で眠たげにしていた子猫が動き出した。
 まだ開いたばかりのような目で俺を見ながら、しきりに鼻をクンクンと動かしていた。

「何だよ、お前もお腹が空いたのか?」

 多分、味噌汁のダシ、カツオブシやニボシのにおいがしたのだろう。
 まだミルクしか飲めないのに。

「あら?」

 台所から、俺の分の朝食を載せたお盆を持って秋子さんが出てきた。
 そして俺の腕の中にいる猫を見て、小首をかしげた。
 こういう何気ない仕草は、名雪とよく似ている。
 さすがに母娘だ。

「猫?」
「ええ」
「よく名雪が手放しましたね」
「猫と遊んでて、なかなか着替えないんで、取り上げてきました」

 秋子さんは、一瞬驚いたような表情をしたが、すぐに笑顔に戻る。

「それは困りましたね」

 少しも困った様子も見せずに言う。
 むしろ、楽しそうだった。
 でも・・・。
 いつもと少しだけ、本当にホンの少しだけ、何かが違うような気がする。
 気のせいだろうか。

「でも、あまり意地悪しちゃいけませんよ」

 やはり気のせいか。

「はい」

 この場合は名雪の方が悪いのだが、素直に返事した。
 この、正体の分からない違和感のようなものを、自然と避けたいと思った。
 幼い俺も、もちろん、この俺自身も。

 ドドドドド…

 そのとき、何かが階段を駆け下りてくる音が聞こえた。
 名雪が、やっと降りてきたようだ。
 間もなく扉が開き、俺のひざの上で寝たいたはずの猫が一瞬にして消えた。
 すばやい動きで名雪が奪ったらしい。
 猫が絡むと、キャラが変わるな…。

「よしよし、祐一に変なことされなかった?」

 猫の頭を撫でながら、何やら失礼なことを言っている。

「おい、人を誘拐魔みたいに…」
「だって、奪っていったじゃない」

 非難するような目で見てくる。
 確かに、そうなんだが…。

「だって、名雪がなかなか着替えないからだろう?」
「だって、猫さんだもん」

 何でも、その一言で完結されるらしい。
 そうはいかない。

「関係ない、人をあんな風に起こしておきながら…」
「あんな風に?」

 丁度そこに、秋子さんが出てきた。

「な、なんでもないよ、お母さんっ!」

 必死に隠そうとする名雪。
 だが、このときの俺は今以上に人間ができていなかった。

「聞いてくださいよ、秋子さん…」
「祐一、言わないでっ!」

 珍しく、気持ち語調を強めて名雪が言うが、子供な俺は普通に無視した。
 さっき腹に受けた衝撃が、まだかすかに残っていた。

「名雪が…」
「祐一嫌いっ!」

 猫を持っていない方の手で、必死に俺の口をふさごうとするが、簡単によけられる。
 少しばかり間をおいて、俺は続けた。

「名雪、成長しましたよね」
「え?」

 そんな俺の言葉をまったく予想していなかったであろう名雪は、呆然としていた。

「いや、名雪が起こしに来るとは思いませんでしたよ」
「そうなの、名雪?」

 秋子さんが嬉しそうに、名雪に問いかける。

「う、うんっ」

 まだ動揺の収まっていない名雪は、少しどもった。

「それは良かったわ、明日から起こさないですむかしら?」

 秋子さんが一層嬉しそうに微笑む。
 名雪は少し照れ臭そうに、顔を俯かせる。
 微笑ましい光景に、何となく笑いがこみ上げて来る。

「ははは」
「祐一〜、笑わないでよぉ〜…」

 恥ずかしそうに頬を赤らめたまま、名雪が言う。
 その仕草自体が余計に可笑しかった。

「うう〜…」

 俺が笑いを止める気がないのに気付くと、抗議をやめて、再び俯いた。

「ところで名雪、朝ごはんは?」

 今まで本当に面白そうに微笑んでいた秋子さんが言った。

「和食にしておけよ、鮭がうまいぞ」
「う、うん、じゃあ、祐一と同じの…」

 それを聞くと、秋子さんは改めて笑いかけて、台所に引っ込んでいった。

「あ、あの、祐一?」
「ん?」

 おずおずと名雪が上目遣いで見上げてくる。

「さっきのことだけど…」
「ああ」
「その…ありがと…」
「………」

 何やら気恥ずかしい。
 まだまだウブだな、幼き日の俺。
 …いや、今もか?

「こ、これは貸しだからな。今度やったら秋子さんに言うからな」

 やっぱり、どもるし…。
 そんな俺の気持ちをよそに、嬉しそうな顔で名雪が言う。

「うんっ!」

 その顔は…、アレルギー症状の涙でぐしゃぐしゃだった。

















 朝食を食べ終える。
 名雪の所為で(俺の所為でもあるが)出かける時間が遅くなってしまった。
 すぐにでも出かけたいと思ったが、出かけようとしたら秋子さんに呼び止められた。

「ちょっと待ってください」
「何ですか?」
「今日はちょっと出かけるところがあるので、家に帰ってくるのは夕方になりますから。二人とも、お昼ご飯は大丈夫ね?」
「ええ、お腹いっぱいです」

 さっきのは朝ごはんというか、昼ごはんに近かった。

「じゃあ、夕方までいませんから、帰ってくるのは夕方にしてくださいね」
「分かりました」
「あれ?お母さん、今日はお仕事お休みじゃないの?」

 名雪が頬に人差し指を当てて、記憶をたどる。
 さっき顔を洗って、猫に触らないようにさせたから、今は普通の顔だ。
 少し鼻が赤いけど…。

「そうだよな、今日は秋子さん、お休みのはず…」

 俺も疑問に思った。
 秋子さんの仕事が何なのかは知らないが、仕事の日はカレンダーに書き込んである。
 今日は休みのはずだ。

「いいえ、お仕事じゃなくて、ちょっと出かけるのよ」
「ふーん…」

 名雪は、何か腑に落ちない様子だった。
 まぁ、秋子さんが仕事の日以外で出かけるのは珍しい。
 食品にしたって、仕事の帰りに買ってきたり、俺たちにお遣いさせることが多い。
 何か、特別な用事でもあるのだろう。

「じゃあ、いくぞ、名雪」

 言うや否や、玄関を飛び出した。

「待ってよぉ、祐一〜」

 後ろのほうで、名雪が転ぶ音がした。
 靴をちゃんと履かずに出てきたのだろう。
 俺は戻って、名雪に手を貸した。

「ありがとう、祐一」
「あわてるなよ、ただでさえドジなんだから」
「うう〜」

 起き上がった名雪のスカートの雪を払ってやる。
 無意識にやった俺の行動を、恥ずかしそうに名雪が見下ろしていた。

「これでよしっ、と」
「あ、ありがとう…」

 そして、名雪の手をとって走り出す。

「出るのが遅くなったから、走っていくぞ」
「うん、その方があったかいよ〜」

 二人で手を取り合って走っていく。
 もう高いところまで上っていた日の光が、雪に反射して輝いていた。











「名雪たちは、もう行ったかしら…」

 窓の外は、いつものように良い天気だった。

「そろそろ行こうかしら」

 名雪たちが出て行った後テーブルの上に出したバスケット型のケース。

「………」

 これから自分がしようと思っていることは、自分が一番無意味だと分かっている。
 さっき、電話をしてきたときから…。
 いいえ、昨日、祐一君があのコをつれて帰ってきたときから。
 でも、もしかしたら…。
 一縷の望みを胸に、私は立ち上がった。

 



 続く

                                       第6話へ続く



                     
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