第1話



『それでは、また来週!』
「あ〜あ、終っちゃった…」

 ふぅ、とつまらなそうな、眠そうな雰囲気を兼ね備えた溜息を吐く名雪。
 毎週欠かさず見ている動物紹介番組が終ったからだ。
 もう、八時近い。

「ホント、お前好きだよな、猫」

 俺は、半ば呆れて苦笑しながら、眠たそうに目蓋を擦る名雪に言う。

「だってねこさんだもん」

 お決まりの返答を欠伸交じりに返してくる名雪。

「ま、良いけどな。 名雪、お前そろそろ寝るんじゃないのか?」
「うん、そうする…、おやすみ〜…」
「おいおい、寝ながら歩くなよ」
「ふぁい…」

 注意したものの、明らかに睡眠歩行で部屋に戻っていった。

「本当に、健康優良児だな…」

 名雪の歩いていった方向を見やりながら、呟いた。
 夏休みに入った今でも、八時就寝の名雪生活のリズムは崩れていない。
 大したものだ。

「祐一さん、コーヒーいかがですか?」
「あ、いただきます、秋子さん」

 そして、俺の生活リズムも崩れていない。
 いや、むしろ、寝る時間が遅くなった。
 折角の夏休みだ、早寝して真のゴールデンタイムを逃すのはうまくない。
 そのためにも、秋子さんのコーヒーは必要不可欠だ。
 でも…。
 俺も名雪も今年で三年、受験生だ。
 互いにマズイなぁとは思わないでもない。
 ま、焦ってもしかたないからな。

「はい、祐一さん」
「あ、すいません」

 秋子さんからコーヒーを受け取り、口をつける。
 程よいコクと香り、そして苦味が口の中に広がる。
 俺は砂糖を入れない。
 その方が、苦味が強く、目が覚めるからだ。

「ふぅ、それにしても、何で名雪ってあんなに猫が好きなんですかね?」

 さっき思った疑問を、何気なく秋子さんに尋ねる。
 今更という感もあるが、名雪の猫好き具合は尋常ではない。
 あれで猫アレルギーなのだから、とても不憫な気がする。

「それは、前に猫を飼っていたからじゃないかしら」

 秋子さんが自分の分のコーヒーを持って、調理場から出てくる。
 そして俺の正面に腰掛けると、砂糖とミルクを入れ、スプーンでクルクルとかき混ぜながら、俺に向き直る。

「え? アレルギーなのに飼ってたんですか、猫?」
「ええ、ほんの数日ですけど…。 祐一さん、覚えていませんか?」
「いえ、何も…」

 スプーンをコーヒー皿に置き、一口だけコーヒーをすすってから、秋子さんは続けた。

「祐一さんが拾ってきたんですよ、ノラ猫の子猫を」
「え? それっていつの話です?」

 俺には身に覚えがない。
 いや、忘れてしまったのか?

「そうですね、小学生の時だったかしら…」

 頬に手を当てる、いつもの考え事スタイルで記憶を辿る様に上を見上げながら、秋子さんは言う。

「う〜ん、正直、全然覚えてないんですよね…」

 何となく、この家に猫がいて、名雪が涙を流しながらも猫に迫っていた記憶はある。
 でも、飼っていたと言われると、いまいちピンと来ない。

「まあ、仕方ありませんよ。 それより祐一さん、早く寝なくて良いんですか?」
「へ?」
「明日は名雪と朝一で映画に行って、デートしてくるんでしょう?」
「あ、すっかり忘れてた」

 そうだった、今日は早寝しようと決めていたのだ。

………。

 もう一度考える、俺たちは受験生だ。
 こんなんで良いのかなぁ…。

「じゃ俺、もう寝ます」
「おやすみなさい、明日は楽しんできてくださいね」
「ええ、おやすみなさい」






 と、部屋には戻ってきたものの、コーヒーで目がさえて眠れない。
 こんなことなら飲むんじゃなかった。
 とは言っても後の祭り、意地と根性で寝るしかない。
 布団に寝そべり、羊を数える。



 羊が一匹、羊が二匹、羊が三匹…。

 ………。

 羊が八十三匹、羊が八十四匹、羊が八十五匹…。

 ………。

「眠れない…」

 羊を百六十七匹まで数えてギブアップした。
 目蓋はまだ、羽のように軽い。
 どうしたものか。

「明日は名雪とデートなのに…」

 朝一と言うことは、相当に早起きしなければならない。
 まだ十時にもなっていないが、早めに寝るに越したことはない。

「映画の途中で寝るなんて情けないからなぁ…」

 由々しき事態だ。
 でも、眠れないものはしょうがない。
 今までの生活の所為で、こんな時間には寝られなくなっているのかもしれない。
 ここは、明日のコースでも考えておくのが最善の策である。

「となると、まず百花屋は行くよな…」

 ここら辺はアミューズメントパークなんてないから、行く所も限られてくる。
 結果的に、商店街を中心に考えれば良いので楽と言えば楽だが、退屈するのはいただけない。

「そうだな、猫でも見にペットショップでも行くか」

 ほとんど毎回、このパターンのような気もするけど…。

「そういえば…」

猫、か…。

 さっき秋子さんが、猫を飼ったことがあると言っていたな。
 しかも、その猫は俺が拾って来た子猫らしい。

記憶にはないが…。

 いつしか思考の中心は、デートの行程ではなく猫に代わっていた。
 俺が小学生のころ子猫だったのなら、今でも生きているはずだ。
 でも、水瀬家に生息している猫はピロ一匹だ。
 どうして…?
 名雪のアレルギーが悪化したのか?
 いや、名雪が手放すはずがない。
 なら、一体…?
 そうこうするうちに、俺も眠くなってきた。
 そのまま睡魔に身を委ね、深い眠りの底に沈んでいった。
 



 続く

                                   第2話へ続く



                     
トップへ      戻る