(2024年5月31日15:00~ Theatre E9 にて観覧)
ある田舎町での出来事。少子化による学校統廃合問題に関する意見聴取のために集められた町民たちによる会議が舞台である。テーマに沿った話し合いになるはずのところが、統廃合問題や子育て支援以前にそもそも子どもを生むこと自体が不当であるとひとりの参加者が主張し始めたために、議論は紛糾する。その一見突拍子もない主張(反出生主義)は意外に手強く、他の参加者も次第に説得され、反論できなくなっていく様子が「親ガチャ」や非モテ男性の悩み、不妊治療や出生前診断、あるいは都市と地方の格差などの時事ネタとともに面白おかしく描き出されている。理屈っぽい話題に登場人物の(時に深刻な)バックグラウンドを重ね合わせながら、反出生主義が説得的に響く背景となっている現代社会の諸問題をわかりやすく提示するという点では、かなりの程度成功しているのではないかと思われる。そこはまず評価したい。
とはいえ、中心となるのは討論なので、反出生主義をめぐる議論が説得力をもって展開されているかどうかの吟味は欠かせない。脚本家はよく勉強していて主な論点が上手に織り込まれているものの、細部においては疑問がないわけではない。たとえば、「生まれた子どもが苦痛を訴えて親に抗議することはあっても、生まれなかった子どもが幸福の可能性を奪われたと抗議することはない」という趣旨の説明が劇中にあったが、「生まれた子どもが幸福を親に感謝することはあっても、生まれなかった子どもが不幸の事前回避を感謝することはない」ともいえるのであるから、それだけでは非存在に肩入れする根拠にはならないだろう。出生に際しての「同意の不在」についても同様で、そもそも同意したりしなかったりする可能性が開かれていないところで同意の不在を言い立てても不当性を論証したことにはならない。
しかし、もっと重要なのは反論のほうである。場の雰囲気が反出生主義へと完全に傾いたと思われたところで、それまでほとんど発言しなかった「マイルドヤンキー」の2番によって展開された議論は、反出生主義をふまえての、いわば自覚的なエゴイズムである。開き直って親のエゴを擁護するだけでなく、子どもをもちたいという気持ちに含まれたエゴイズムのマイナス面に対しても自覚的である。すなわち、子どもが不幸になる可能性の最小化を努力目標として引き受け、それを許容範囲内に収められなかった場合の責任をも負う覚悟をもって、自分たちの欲求充足を図ろうとするものである。その意味では、極論から常識へのたんなる還帰ではないし、道徳主義的な立場からも一歩距離を置いた着地点ではあるものの、見方によってはなおずいぶんと道徳的な立場に落ち着いたように感じられるかもしれない。が、子どもに対する——自分勝手だが自分勝手だけではない——多くの親の思いと重ねられつつ、それがマイルドヤンキーの口から出ていることや、反出生主義の主唱者である6番の「地声」が聞こえてくる最終盤のエピソードも相まって、説教臭さを免れている。
ただし、これらはあくまでも内容面から見ての話であって、構成・演出あるいは演技などの側面については、それはそれでまた言うべきことが少なくない。とりわけ演技面では——演出家の指示によるところも大きいのかもしれないが——注文を付けておきたい。男性職員役など一部を除いて総じて「やりすぎ」で、とりわけ6番と役場から派遣された女性職員の演技(せりふ回し)は気になった。6番は前説に割と自然な姿で登場していたこともあって過剰な演技(発声)が目につき、女性職員のほうは他の11人の参加者と比べても異質なほどオーバーで騒々しかった。評者はけっしていわゆる「静かな演劇」を称揚するものではないが、興味深い内容だけに、必要なことを必要な範囲で伝えるための俳優術というものがいっそう磨かれることを望むものである。
タイトルについてもひとこと付け加えておくならば、「十二人の怒れる男たち」が下敷きになっているとはいえ、実際のところ「十二人の生まない日本人」のお話なのかというとそういうわけでもない(「生まない」にはもっと含みがあるとしても、それに関する演劇的説明は十分でない)。そもそも、「十二人の怒れる男たち」の知名度がだいぶ下がってきてしまっているので、話し合いが話し合っているひとりひとりの人間の在り様を逆照射し、問い質すものでもあるという重要なモチーフも想起されることはないだろう。もちろんこの舞台を通してそのことが感得されればよいといえばよいのだが、それならタイトルはもうすこし違った方向で考えられてもよかったかもしれない。
最近では、本作品だけでなく、たとえば原爆投下をめぐる米国高校生のディベートを描いた『ある晴れた夏の朝』(小手鞠るい)が舞台化されているように、論争的なテーマに演劇的にアプローチする試みが複数出てきていることは歓迎したい。そこで求められるのは理論の単なる「絵解き」ではなく、抽象的・論理的な思考からは零れ落ちてしまう現実(あるいは人間存在)の厚みや奥行き、もしくは翳とでもいうべきものを浮かび上がらせることである。前者が啓蒙的な意味合いを帯びた解説風のものになりがちであるのに対して、後者は逆にわかりやすい説明を拒絶し、混乱させ、思考の単純な展開や納得を妨げることのほうが多いかもしれない。現実の汲み尽くし難さに理論や理屈がつねに一歩(もしくはそれ以上)遅れているというだけでなく、生活世界的現実の含む矛盾や割り切れなさもまた、それを生きる者たちの未熟さや知的混乱に還元されることなく、そのままに受け止められるべき部分もある。あらたに掬い上げられてそれとして名指され、語られるべきことがまだまだあるはずである。「笑いの内閣」の今後に期待したい。
※タイトルについての追記:
「子どもを作らないのは生産性がない」と述べて物議を醸した議員がいたが、これといった結果を出さなかった会議もまた生産性がないと見なされるのであれば、ただ無駄に集まっただけの「12人の生まない日本人」ということになるのかもしれない。そのような(反語的)意味も込めつつつけられたタイトルであるのなら、それはそれでわからないでもない。(2024/06/19)