【中瀬古氏による発表の概要】

 I 「星野君の二塁打」を巡る 3 つの論考 

・中瀬古(1994)「子どもの権利条約と体育授業の課題―道徳の教科書における『スポーツ観』の分析を手掛かりに―」 

1) プレイ場面におけるプレイ選択権(意思決定権)をどう考えるか。
2) ルールや作戦の決定プロセスへの子どもの参画をどう扱うのか。
3) 子どもとの合意形成を重視した対話型の授業形態の模索。
4) スポーツの内包する「自由」と「自治」の思想性の内容化(訓育内容) 

・中瀬古(1995)「子どもの権利条約と体育授業の課題(2)―『星野君の二塁打』を扱った体育理論の授業実践を手がかりとして―」 

道徳教材としての「星野君の二塁打」と「日本的スポーツ観」を教材・内容として扱った体育理論の授業実践を分析・検討し、授業づくりのための基礎的資料の導出を試みた。 「剣道とスポーツチャンバラの違い(ガッツポーズ禁止)」「フェンシングと柔道の歴史」 「野球とベースボールの違い」「野球の歴史(連帯責任)」の内容・教材とともに道徳教材としての「星野君の二塁打」を学んでおり、日本的スポーツ観(垂直関係、社会と個人の関係性)の典型として位置づけられている。
※吉田甲子太郎の意図や文学作品としての価値(スポーツと民主主義、虚構の世界における理想や理念の追求)については全く視野に入っていなかった。 

・中瀬古(2003)「子どもの権利条約と体育授業の課題(3)―道徳の教科書における『日本的スポーツ観』の分析第二報―」 

1989 年(平成元年)指導要領改訂うけ、新たに刊行された道徳の教科書で扱われている体育・スポーツを題材とした教材について吟味した。
近代スポーツやパラリンピックの解説が前回には見られなかったもののその特徴・構図は基本的に大きな変化は見られなかった。
功刀(2002)による「星野君の二塁打」を「日本的スポーツ観の典型とすることの問題性の指摘、坂上(2001)による、「日本的スポーツ観」の特徴(後進性・前近代性)を指摘する際の方法論の問題性の指摘を受け、1)道徳的・社会的規範形成(訓育)に対する強烈な国 家の意思の存在、2)授業づくりにおいて、主要には「意見表明権」は、教育方法レベルの課題を提起している(水平的な教授-学習過程)、3)「犠牲の精神」や「集団の秩序」と「自由」や「自治」を「日本的・後進的」と「西洋的・先進的」の短絡的な二項対立図式で捉えない、ということを明示した。 

II 「『星野君の二塁打』を読み解く」から学んだこと ※[☜所収論文へのコメントは略]

 (仮説) スポーツ科学は、実際のスポーツ活動に内在する理想的・人格的関係に焦点をあて、それを深く掘り下げ解明するということを十分に行ってこなかったのではなかろうか。そのようなスポーツ科学を土台として、スポーツ教育や体育授業が語られており、スポーツ活動の内在的価値は軽視され、体力や徳目的な社会性等の外在的な側面からのみその教育的価値や機能が語られてきたのではなかろうか。 道徳教育が徹頭徹尾無効化された今日だからこそ、文学や芸術・スポーツ等虚構の世界に込められた理想や理念(大衆の願い・希望)との丁寧な結合・統一或は還流(内在的読み)が求められているのではなかろうか(「生活」と「虚構」の往還?)。 

III スポーツ教育を学ぶ大学生との対話 

1. 調査の目的 文学作品としての「星野君の二塁打」を、スポーツ教育学を学ぶ学生と共に読み、感想や考察を交流し以下の仮説を検証する。
仮説 1:文学作品としての「星野君の二塁打」は、時代を超えて若者の共感を得る。
仮説 2:スポーツ経験、ルールの理解、が、内在的理解に影響を与える。 

2. 調査の方法
調査の対象:保健体育教員養成課程に学ぶ女子大生 2 回生:64 名
調査の期間:2021 年 10 月 15 日~2022 年 1 月 24 日(2 時間×4 クラス)
調査の方法:①対面授業において資料を音読 理解を深める質疑応答 ②オンライン(Teams)にて、質問に回答
質問項目
1. この物語は、戦前生まれの児童文学者が少年少女向けに書いたものです。内容に興味がもてましたか。(5 段階評価)
2. 主人公の星野君は、どんな少年だと思いますか。
3. 監督の今井先生はどんな先生だと思いますか。
4. 最も印象に残った、文章或は発言等を、教えてください(全文そのまま書いてください)。
5. 印象に残った理由(訳)を教えてください。
6. 全体を通しての感想或は考えたことについて自由に述べてください。
7. 作者は、この物語を通して何を子どもに伝えたかったと考えますか(作者の意図)
8. この物語の動きを、あなた流にアレンジして展開してください。 [☜1~8 の回答は略]
※ [ ]内は記録者による説明・補足、【】内は発表者の口頭説明からの抜粋
9. スポーツ活動におけるプレー選択と子どもの意見(意見表明)

肯定派・積極派の意見(抜粋)
・部活動は生徒の成長のためにするものだと思うので、子どもの意見を聞き、自主性を尊重する必要がある。
・指示の通りに動くことがすべて最善ではない。監督と選手の信頼関係がしっかり築けているのなら、子どもの意見は尊重すべき。
・子どもの意見は全て尊重することは出来ない。
・やりたい事や挑戦したい事をする時に先生が手助けをすることがいい。
・基本となるのは監督の考え。 

否定派・消極派の意見(抜粋)
・ゲーム活動中に作戦などを子どもの意見を尊重して行っていたら、まとまらず試合にならない。
・メンバーの気持ちも考えずに、自己満足なプレーをする可能性。
・まだ経験や知識のない子供たちに全てを任せて試合が成立するでしょうか。
・野球・ソフトボールは先生ありきのスポーツだと思ったので子供だけの意見ではよくないと思った。
・中学校は義務教育であるし、先生の指示で動くのもいいと思うが、高校以上になると、子どもの意見を尊重した上で、大人が助言するという形をとるのが良い。
・指導者という立場がある限りは、しっかりと指導をし、子どもたちに作戦や指導を与えるべき。
・試合に勝つための作戦を効率よくしっかりと組み立てることは子どもたちはできない。 

10.[スポーツから]社会への敷衍(虚構と生活)

肯定派・積極派の意見(抜粋)
・だらしない大人に育ち国のルールを守れない人になる。
・スポーツをする中でのメリットとして人として成長出来ること、部活内に上下関係があることも社会を知ることに繋がる。学校の部活としてやるなら当たり前。
・社会でも通用する人間性であったり、礼儀であったり、自分はそこでどういうことを求められているのかを理解する力をつけていく場。
・スポーツと社会で生きていくことは比例している。
・上下関係は社会に出ても通用するものだと私は思いました。目上の方への配慮や挨拶など、大切なこと。
・団体の一員としての自覚を持たせるためとしては間違っていない。礼儀などを教えるには良い方法。
・実際社会で気を付けるべき点を部活を通して教えることも指導に含まれる。

 否定派・消極派の意見(抜粋)
・言いなりになって意見を尊重されない社会になってはいけない。
・スポーツの活動中の行為やルールはスポーツ活動中だからこそ適用されるべきもの。
・作戦や行為を押し付けてそれ通りにしか動けないとなると子供たちの挑戦する気持ちが薄れていく。新しいことへの挑戦などにもかかわってくるので、スポーツ活動中の行為やルールを現実社会に押し広げすぎないようにする必要がある。
・スポーツは楽しむためにやるし、ほんらいは、遊びとしたものなのに、縛りをつけ、制限してしまうと楽しむものもできなくなってしまう。
・学べることはたくさんあり、社会に出て役に立つものばかりである。しかしそれを目当てにスポーツの活動やルールを行うことは違う。
・スポーツは娯楽に当てはまるため、その中のルールを社会に取り入れすぎてはずれてしまう。 

【考察】
(1) 文学作品としての「星野君の二塁打」について
・道徳教材との違いについて―概ね確認できた [文学作品はディテールがちりばめられている。さりげない描写がよく、そこにスポーツでほんとうに体験しているところとのつなぎがあるのかもしれない。道徳教材は葛藤と矛盾だけに特化して見せる。ディテールをカットした時点で文化性などは捨象されてしまったのではないか。]
・スポーツ科学を学ぶ学生のためのテキスト―スポーツ現実
・教員養成系に学ぶ学生のためのテキスト―教育実践の意味
・言葉の問題:「罪」「制裁」
・時代制約性:グラウンドでの煙草 

(2) 作品やスポーツの内在的価値への学びに向けて
・スポーツ(部活動)の履歴に規定される―バスケットボール部 vs.ソフトボール部― [自分がやっていたスポーツの構造、ルールの構造、セオリーで当たり前になっている文化をくぐってきた学生は、やはり相当スポーツ観も規定されて影響がある。]
・道徳教育の教材/素材として
・体育理論の授業づくりの課題 スポーツ現実の複雑性
・多様性 ・スポーツ科学或はスポーツ研究の課題 数値化・エビデンス 

IV 「生活(社会)」と「スポーツ文化(実務/虚構)」

体育授業の実践的課題
①ともにうまくなる(技術の分析・総合) 練習・作戦の工夫
②ともに楽しみ競い合う(メンバーの合意形成) ルールの工夫
③ともに意味を問い直す(自由・平等・平和) 工夫の意味
すべての子どもに運動遊びやスポーツの感動と生きる力を保障する 「わかる」「できる」「分かち伝える」力を培う 意味
・生きる力≒訓育内容 「意見表明権/遵法・犠牲の精神」 

体育授業における訓育を考えるヒント①
学習課題 技術・戦略ルール学習
発達課題 意見表明
生活課題 遵法・犠牲
・意味を問い直す:既存のルールや戦略、習慣を乗り越える
【将来、バントは命令されてやるものではなく、バッターボックスの選手がみんなにブロックサインを送るようになっているかもしれないと教えてもいいかもしれない。そうすると、 「星野君の二塁打」の見え方もすこし違うのではないか。】 

体育授業における訓育を考えるヒント②
目標:意見表明権 内容:遵法・犠牲 方法:垂直・水平・双方向
(内容と方法の交差するところに教材:野球は、監督の指示に従うスポーツ?) 

体育授業における訓育を考えるヒント③
縦軸:ねらい+支援の主要三側面:小集団(班)・リーダー(核)・話合い(討論)
横軸:クラス(生活)関係づくり+チーム(学習)関係づくり
【関係作りもセットで考えないといけない。意見表明できるためには、間違ってもいいという雰囲気がクラスになければならない。ボールゲームでいうなら、俺もシュートしたいんだと要求を出さないといけない。そういう要求が出せるようなチームかどうかということ。】
【日常的な人間関係から解放して関係を再構築する。日頃の人間関係ではなく、スポーツで新しくそれを組み替えるチャンスがあるのではないか。文学作品もそういう風に捉えられないか。】 

体育授業における訓育を考えるヒント④
スポーツ活動の実務性と虚構性
子どもは虚構の世界の住人
豊かな虚構の世界の保障
学校の教育活動は、「疑似労働(虚構)の世界」
【『スイミー』は団結力ではなく大海原で泳ぐ楽しさを伝えたかったはず。スポーツもそういうところをもっている。】 

《主な質疑応答およびコメント》 

Q: 学生たちの意見が肯定・否定に分かれて、種目による違いということだったが、ほんとうにそうなのか。次の発表で扱われるお話では、”baseball is a team game”と先生の説明がすごくアメリカ的で、指示に従うということではないという話。だからスポーツの種目によるのではなくて、やはり日本の野球、日本のソフトボールだからではないか。文化系では吹奏楽が流行っているが、吹奏楽もやはりチームだと言って、それでみんなで決めたルールに従って練習しなければ駄目だとか部活の圧力がかかるのは常に問題になっている。部活というのは実は青少年の健全育成を目指したもので、全員部活に入りましょうなどというのもやはり日本的。 

A: 種目という言い方をすると誤解が生じる。たしかに日本的で、しかも部活の経験者なので。その議論自体に日本の限界というか部活動の問題性が出てきたというところで、それが種目団体によって日本の場合まだまだ残っている。部活動学会にも入っているが、[部活動を学校の]外に出すことに強く反対する人たちもいる。学校がコントロールできなくなるという理由だと思うが、部活がないと生徒指導ができないというような意見が根強い。 

C: 野球はセオリーを組み立てやすく形式化されやすい、つまり自己判断の余地が割と少ない。不確定要因が全くないわけではないが相対的に予測しやすいスポーツで、それぞれが勝手に判断して勝手なことをするというよりは、全体が見えるところで指示が出されたりサインが送られたりということがなされやすく、またそれに合理性のあるスポーツなのではないか。種目が同じなら日米同じになるわけではないにしても、複合的に見ていくことは大事だと思う。 たしかに大きく言うと相変わらず監督が権威主義的で、生徒たち・選手たちも右へならえ的にそれに従属することしか知らないという感じで描かれる部分もあるが、いまはもうすこしいろいろあるのではないか。すくなくとも環境的にはずいぶん違うし、上記調査の学生たちの反応にもそういうものは表れているので、「星野君の二塁打」をめぐる議論も、白か黒かというところから抜け出せるとよいと思う。 

C: 保護者たちが教師を信頼しなくなって、だから子供たちも[教師は]尊敬の対象になってない可能性もある。その点からすると、スポーツ経験の多い人たちは一般からずれているということもありうる。時代的変化の中で変化しないところにいる人たちかもしれない。信頼関係と一言で言っても、水平的な信頼関係と上下関係の信頼関係・縦の信頼関係とあって、意味がちょっと違ってくるかもしれない。信頼できない関係であれば、あまり教育的機能を果たさない。 僕が学部入ってすぐの体育原理・体育スポーツ哲学の授業の話。衝撃を受けた一つが、ア メリカのコーチと選手の関係。選手は納得するまで質問攻めにする、納得したら指導を受けるという関係だと。70 年代半ばの体育授業。それは種目を超えて、指導・被指導、人間関係の在り方になると思う。日本は、そういうものに近づきつつあるかもしれないけれど、全体的傾向としてはまだまだっていう感じかもしれない。 [アメリカの場合]逆に言うと、選手はもう理論家になっていく。そのプロセスで。指導されていわれた通りやるのではなくて納得づくで、データなども示してもらいながらやっていくから、ある意味では知識が豊富になっていて、その部分は指導ができるくらいの選手になっていく。70 年代半ば。 

A: [日本は]それが今でも続いているところに驚愕の思いはある。ほぼ変わっていない側面。データで説得するというような関係はほとんど見ない。本当に時間止まったような感じ。 

C: 小学生にはやはり星野くんの二塁打は難しいと思う。社会のルールについてどう思いま すかっていう問いかけなど、ちょっと無理があるのでは。小学生の場合はほとんどが星野派、ごく少数が別府派。多くの子はなぜ別府さんを支持するのかがわからないから、なぜそうい うのが正しいのって問いかける。問いかけをする中で、スポーツ少年団の子らが自分らのつ らい思いを吐露する場面が生まれる。だから、小学校でやる場合はそういうスポ少の子供た ちの心の闇を癒してあげるための教材なのかなと思ったときもあって、それが[成長すると] だんだん小学生と違う、半々の比率になっていく。それは何なのかと考えるようになってい った。 

C: 中瀬古先生が学生に聞いたときに、あの後のストーリーを考えたという話はすごく面白くて、現代的な読み方がされているなと。とくに即辞任とか退陣とか、そんな話はおそらく昔は出てこなかっただろうし、そういうところに発想が及ぶというのは昔はなかったはずなので、そういう意味では、学生たちはそこそこ「星野くんの二塁打」を相対化することはできているのではないかと感じる。 

C/Q: 学生に星野くんの話をしたときには、「権力的な先生だね」という声が結構多かった。スポーツをしている学生と吹奏楽の学生は先生を崇拝している部分もあったので、やはり文化系と違う部分があるのかと思った。 子供のスポーツは人間形成と挨拶についても同時に身につけることができるという話があったが、子供のスポーツと成人した大人のスポーツで指導方法に違いはあるのか。 

A: 日本は挨拶を練習したりする。ニュージーランドに留学した学生に聞くと、コーチ相手でもタメ口。でも卒業の 1 回だけは、本当に気合入れてありがとうって。それがほんとうの礼だと僕は個人的に思っている。日本はもう、つねに何かフリをしとけみたいなのが部活を 通して日本国民に浸透していて、それがまだ続いているのかという思いはある。 

C: 小学生の低学年に水泳指導をやったことがあって、大学生の泳げない子の指導とはぜんぜん違う。大人相手では知性に迫っていく、理屈に迫る。子どもの場合、理屈には迫れないから活動させながらポイントみたいなもの意識させる。 指導ではなくて世界、サッカーならサッカーの世界が[大人と子どもで]同じか違うかとか、そういう話は面白いと思う。 

A: ボールゲームなどを見ていたら、「ゴール見えたらまず投げろよ」という。[学生たちには]それがない、やはり周りとの調整で。聞くと、「いや、自分は 2 年生だからそんな[ことはできない]」、「先輩が」とか。野心なんか育てないよう育てないように、何かシステムとしてはあると思う。社会教育も含めて。 

C: ゲーム中の指示関係というのはもう前提として決まっていて、[試合に]出たらそれに従 うというのは一般的だとして、だけれども、練習のときは違うよということを城丸章夫は言 っている。練習が大切なんだよ、練習の中の人間関係が大切なんだよと。挨拶とかは関係な しで。スポーツの話と社会一般の話を区別しているのだが、スポーツ活動の中のゲーム中・試合中の話と練習中の話と、それともう一つ、部活をどう運営するかという相談の場もある。その三つくらいは分けて考えることが必要。授業の進め方としてもそうなのではないか。 1960 年代くらいにはいわれたこと。そういうのを詰めて掘れていないというのは、ちょっ と不毛な議論になる可能性があるという印象がある。 

A: 僕が集団つくり・関係性作りみたいなことを意識しているのは、城丸さんからの影響だと思う。あれはゲーム場面のことではなくて日頃の活動のありようでできる関係性で、ゲーム場面でそれがなにか飛躍するということはあまりない。ゲーム場面というのは日頃の活動の結果の発表会みたいなところがあるから、そこはきちんと説明しないといけないと思った。

 ::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

【功刀氏による発表の概要】

1.道徳の読物教材「三るいライナー」と原作との(注目すべき)相違点(=改作) ここでは、「三るいライナー」の原作を探し求めながら、原作と「三るいライナー」の違い、加筆(改作)部分に注目し、この改作が道徳の「内容」に合致させるためのものであったと考えられることを述べる。

1) 1980 年代半ばの道徳副読本『奈良県版 3年生のどうとく』に「三るいライナー」というタイトルの読物教材が掲載されている。「三るいライナー」の最後には出典の原作者が 「久米元一」とある(文献 1・資料 1)。

2) 久米元一の犠牲バント物語には 1959 年版(文献2・資料2)、1961 年版(文献3・資料3)、1973 年版(文献4・資料4)、1981 年版(文献5・資料4)の 4 点がある。この内、1959 年版は場面設定(試合相手、サイン等)が「三るいライナー」と異なっており、原作とは考えられない。1961 年版、1973 年版、1981 年版のいずれかが原作であるが、特定はできない。ただし、「三るいライナー」のマシアス先生の発言「野球は一人でやるスポーツではないよ。みんなで力を合わせてはじめてかてるのだ。」の後でジョージは「がっくり」しているが、マシアス発言の後で「がっくり」しているのは 1961 年版だけである(表 1)から、1961 年版が原作の可能性が大きい。

4) 「三るいライナー」には 1959 年版を含む久米の 4 点のいずれにもない一文、バント指示の後の、「ジョージは、心とははんたいにしぶしぶうなずきました」が挿入されている。これが注目すべき相違点(加筆・改作部分)。

5) 「三るいライナー」の最後の「考えよう」の2は、「自分のかってな考えで、やくそくごとやきまりをやぶったことはありますか」である(資料1)。また、『奈良県版 3年生のどうとく』の奥付のページにある「内容一覧表」(主題名と内容の対応表)では「三るいライナー」の「内容」は「規則の尊重」である。 ※ 「星野君の二塁打」では、原作者版でも副読本・教科書版でもバント指示の後の星野君は曖昧な返事であったが、翌日の監督は「ぼくとの約束」と言っていた。「三るいライナー」では約束したことにするためにジョージにうなずかせたものと思われる。

2.久米元一自身の犠牲バント物語の改訂(変質) ここでは、とりあえず、久米元一の犠牲バント物語の三つのバージョン(1959 年版・1961年版・1973 年版)を比較して(表1)、どのような変化があるかを探る。

1) ジョージの変容:素直な少年から無知蒙昧な悪童へ (1)マシアス発言の後のジョージ:うなずく(1959 年)→うなだれる(1961 年)→ふくれる(1973 年) (2)自己犠牲・ルール・自分勝手を、さとる・わかる(1961 年)→通じない(1973 年)

2) 野球のルール・きまり(1961 年)→世の中のルール(1973 年)

3.先行する犠牲バント物語の久米元一による改作 ここでは、久米が犠牲バント物語の創作にあたって参照した犠牲バント物語と久米の犠牲バント物語の比較を通じて、久米が先行する物語から引き継いだことと改めたこと(連続と非連続)について考える。

1) 久米(文献 3 の「資料」292 頁、このレジュメの最後に添付)によれば、久米が創作の際に参考にした犠牲バント物語は、白木茂(文献6・資料5)と Guernsey Van Riper, Jr. (文献7・資料6)の 2 点である。ちなみに、この 292 頁の「資料」には、「この伝記を書くにあたり、白木茂先生から、きちょうなしりょうをおかりしました」と記されている。

2) 白木と Van Riper の関係については、白木の犠牲バント物語は Van Riper の犠牲バント物語の翻案と言って間違いないだろう(表2、および表 3)。白木はさよなら逆転勝利に改めている(これは 9 回裏まで 0 対 0 の設定だと、1 点入ったところで試合終了〔×ゲーム〕となるからではないか)。

3) 久米の犠牲バント物語は白木と Van Riper の犠牲バント物語におけるマシアスの「野球はチーム・ゲーム」という発言と「バントに成功していたら得点できた」という発言を継承している。久米 1959 年版のマシアス発言後のジョージの「うなづき」も同様である(表 3の下)。

4) 久米の犠牲バント物語は、上記の点を継承しつつ、ゲーム展開と犠牲バント場面を大幅に改め(1 回目の改作=1959 年版)、さらに前節でみた、1961 年版、1973 年版と 2 回にわたって大幅な変更を加えたものと言えるだろう。

5) 久米の物語において改められたことは、ゲーム展開と犠牲バント場面(表 3 の上)だけでなく、Van Riper と白木の物語における二つ目の「わすれちゃいけない」こと(the first rule of batting)を削除したことである。これは後のホームラン王に繋がり、かつマシアスとジョージの信頼関係を深める重要なトピックである。ルールという言葉の使われ方が、(Van Riper と白木の)野球のバッティング技術上の原則(表 2)→野球のルール・きまり(表 1:久米 1961 年版)→世の中一般のルール(表 1:久米 1973 年版)へと変容していることも注目すべきだろう。 ※2と3を合わせて、久米 1961 年版と 1973 年版を教化もの(道徳教材化)と言えるのではなかろうか。

[紙幅の都合で資料・表などの掲載は省略した。本報告書の功刀論文を参照されたい。]

《主な質疑応答およびコメント》

Q: ①ベーブ・ルースはタイ・カップから「ホームランを狙うんじゃなくて、ヒットを狙いなさい」とか言われて、「いや俺はホームラン、客がホームランを見に来てるんだ」といったとか。本当かどうかわからないけれども逸話があるので、あまりベーブ・ルースは流し打ちはしないのかなという気はする。②奈良県の教材作成者は、この教材を作ったとき、星野君の教材と並べて使わせるようなことを考えたのか、それとも、もう星野くんよりベーブ・ルースのほうが面白いから、ベーブ・ルースの教材使ったらどうですかというような入れ替えの意図で入れたのか。③多分、吉田甲子太郎は何らかの形でベーブ・ルースのこの逸話を知って、自分の作品に活かしたのではないかという気がする。 

A: ③はまったく考えていない。[「星野君の二塁打」の初出版が]1947 年に対して、Van Riperは 1952 年に最初に出している。それを見て「星野君の二塁打」を書いたってことはたぶんあり得ない。 

Q: その作品同士ではそうなるが、それ以前にもし別のものがあったり、あるいは、その逸話自体は事実で他の方も結構、野球に詳しい方なら知っていたりしたのなら、そんなことがあるかなと。 

A: 本格的にやるとしたら、今度はアメリカの中で、子供向きでも大人向きでもいいのだけれど、ベーブ・ルースが犠牲バントを指示されたというような場面[を載せた文献]がほんとうにその前にあるのかどうか調べなければいけない。 ②については、これは奈良県の人が作ったのではないと思う。編集者は京都教育大学と、あとはほとんど小学校の先生とか、全国版だから。で、だいたい奈良県版とか沖縄県版とか滋賀県版といったら、三つぐらいほかのものと違うものを入れる。その三つの中に入ってないから、奈良県特有でないはず。ほかの県の 80 年代半ばの文溪堂のこれには載っているだろうと今のところは思っているけれど、ほとんどの図書館が持っていない。ということで、調べられないというのが現状。 

C: ネットに昔の指導案のかけらが出てくることがある。その時、「チームのために」という言葉はよくみる。単純に副教材作る人が「チームのためにやりなさい」という意図で入れたのだろうと思っていたが、今回僕はこの資料を見て、もしかしたらこの言葉は…[久米元一による 1959 年版の犠牲バント物語「チームのために」と関係があるのかもしれないと思った]。 

A: 重要だ。「チームのために」と「みんなのために」は違う。[久米の]61 年版は「みんなのために」で、for the team というのはアメリカでも一番重視されることであるし。  

C: 奈良県が星野くんの二塁打ではなくてこちらを採用したというのは。奈良県のそれなりの事情があったのではないか。奈良県はかなり同和問題が厳しい。「みんなのために」とか、 あるいは「犠牲になるんだぞ」という話は、もしかしてちょっと避けられたのかもしれないと思う。それから、久米自身の改作の中にもそういう社会的な変化の中で表現を変えていったということがあったのではないかと非常にイマジネーションを膨らませられるところ。 

Q: この作品、小学校 3 年生用で、「星野くんの二塁打」はだいたい高学年。3 年生の方がえらく内容的に難しいのではないかという感想をもったが、その点はどう思うか。 

A: さっき言った岐阜県版とか沖縄県版というのは、ひょっとするとすぐ終わってしまったのではないか。だから失敗作だと、3 年生用にこれを載せたのは間違いだったと、そういう風に考えられる。これはある意味で 2 番煎じなんだけれども、スクイズ作戦だから、3 年生にそれやるかなと、失敗作なのではないかと思った。90 年代まで使われていたとずっと思い込んでいたが、いろいろ図書館で調べて、「ないです、ないです」と[返事が]くるから、短命に終わったのだろう。 

Q: これは、内容項目は集団生活なのか、それとも… 

A: 規則の尊重。だから、典型的にいえば「星野君の二塁打」。星野君の二塁打はふたつに分かれるのだけれど、最初は規則の尊重。文部省の位置づけもそうだった。「星野君の二塁打」の時にもそういう議論があったが、規則の尊重という話とちょっと違う。無理やりだ。 

C: すごく面白い材料がもう一つ見つかったという感じがしていて、興味深く聞いた。「星野君の二塁打」が仮に後発あるいは真似だったとしても、ちょっとひねりが効いているなと思った。要するに、監督のいいつけを無視して、指示を無視して成功しちゃったという話。[もう一方は]監督の言いつけを守らなかったら失敗しちゃうよという話。だから、道徳教材としては、星野君の二塁打の方が考えさせるものになっているという気がした。もちろんそれを超えてまだ抑える形になっているので、さらに効果を狙っているということも考えられるが、いろんな解釈ができるけれども、少なくとも、いろんな考え方ができるように「星野君の二塁打」はなっているような気がする。 

A: たしかにこちらは単純、道徳教材としては。いうこと聞かなければ駄目という感じ。原作というか、アメリカのはおもしろい。逆に、そこから大きく学んで成長していく。はばたいていく、ホームラン王として。 引っ張るか流すかという話があったが、まだ野球始めたばかりの 8 歳くらいの子供が流し打ちを強打しないのではないか、強打といえば一生懸命引っ張るのでは。 

 C: 英語のお話のほうだといろいろな見方ができると思うが、ひとつは、継続性、反復性。つまりその一つの行為だけ、1 回の打席だけの話で終わっているわけではなくて、それが続いている。それを踏まえて次どうしたかというお話になっているということは割と大事なことではないか。「星野君の二塁打」は設定からして本当にもう決まってしまっていて、そ れを受けてどうするとかどう変わるのか、どうなるのかということが試合自体の中では起きようがない構造になっている。そのことが、後々のミーティングでの話に全部持ち越しになり、かつそこで、いま聞くとちょっと刺激の強い「制裁」という言葉が使われたりするということでだいぶその辺が違うと思う。 一つの試合の中での打席の重みがそれほど重くない設定で、ちょっと気持ちが盛り上がって打ってしまったということがあった場合、その監督がどういうふうにそこで言うかというのは教育的に見てもかなり大事な話になるし、それを受けて次、星野君なら星野君はどうしたかという話になれた。けれども、実際にはそういう設定になってないということは、ずいぶん話の性質を左右している。 また、これは星野君のはなしを考えるときには必ず出てくることだと思うが、例えば、監督の指示を守らなかったことはそのチームで一度たりとも起こったことがないのか。いろいろなことが指示と結果の関係ではあったはず。指示に従って悪い結果を導く。指示に従って良い結果を導く、指示に反して良い結果を導く、指示に反して悪い結果を導くというような、様々なパターンがおそらくあっただろうし、現実にはあるだろうし、そういうところで監督はどういうことを選手たちに言ってきたのかと。およそそんなことはなかったかのような設定になっているという辺り、その反復性とか継続性みたいな当然考えられるべき背景が見えなくされていて、一回的な性格がとても強くなっていることが、一方では、説得力を失うというか、それはどういう状況なのだろうなと思わせるし、他方ではそこに、つまりそのお話ひとつに賭けられているものがあまりに重くなりすぎて、余計な重みをそこに与えすぎているのではないかという気がする。それがこの英語のお話の継続性・反復性から逆に思ったこと。 あと、翻訳の方の久米元一、確かに表の方を見るとよくわかる。ちょっと作りすぎ。だか らこれはこのケースだけの話というよりはもうちょっと一般性があるのかどうなのかと。安保がどうということだけではなく、指導要領や他の教材における子ども像、例えば「ぷっと膨れた」だとか、「犠牲」や「ルール」あるいは「世の中」というキーワードの使われ方。例えば、野球の話をしながら、61 年版は「野球には、この世の中と同じように」というもっていき方をしているのが 71 年版は反対になっているという辺りも、かなり大きな意味合いを持っているけれども、これがこの教材もしくはあのときだけなのか、それとも、もうちょっと一般性があるのか。教材横断的に検索でもできたらば、「世の中」という言葉、ルールという言葉はどう使われているのだろうとか、ふたつかけ合わせるとどういうふうに出てくるのだろうと、ちょっと気になるところ。そんなことがわかると、これ独自の話、もしくは久米という人物に結びつけてこのことを語るべきなのか、もうちょっと一般性を持たせて、一般的に見るべき問題なのかということが、方向性としてわかれてくる気がする。  

C: 1972 年はどんな年かなと思っていたら、よく使う国民教育研究所編の近現代日本教育小 史のあとがきには、72 年はちょうど学制 100 年目、教育基本法が制定されて 25 年目で、 要するに能力主義国家主義の盛んになってきたということでまとめているという時期だがら、おそらくこの 72 年というのは、何か節目になるのだろうなと。 露骨に創作する文学作者って・・・だから教材化されたものをそのまま使ったらいけないとかっていうことは体育教材の時でもいう。学生に指導要領、大筋いいことを言っているけれども、いろんなことを自分で解釈できる大綱的な基準だから、置き換えて自分のやりたいことにと言っているのだけれど、ディテールがこんな風にかわるというかたちで出てくる文章などはどう考えるのか。ものすごく細かいところを変えているようだけれど、すごく何か、恐ろしいなという気がして。 

 A: ちょっと自分勝手な反応すると、あまりそういうことは僕は考えないようにしていて、とりあえずそれちょっと置いておいて、砂田弘が、あとがきの中で、「ベーブ・ルースの子供時代を悪ガキに書いた」と書いている。それはなぜかというと、偉人物語・伝記物語があまりにも聖人君子で、子供たちから遠すぎる存在だから、子供たちに近い子供を描くのだといっている。野球の話ではないことも含めてマシアス先生との関係みたいなことがずっと出てくる。野球だけではない、ベーブ・ルースが寮を抜け出したときにもマシアス先生が対応して、なになにしたときにもマシアス先生が対応して・・・そういう脈絡の中でのひとコマ。それを抜きにしてここだけ取り上げるというのが、今回の報告の最大の欠点。だから、ここではこんなこと書いといて、そこから成長するための一つのトピックとしてここを書いといてというのが 73 年版かもしれない。波のある人生だけれどもすごかったというなかのひとコマとしての少年時代。それはちょっと押さえないと、ほんとうは話にならない話。犠牲バントだけ取り上げるというのは問題だとは思う。 

 Q: その発達は平板なものではなくて、浮き沈みある螺旋的なものになっていると描きつつ、 犠牲などの概念が入ったりするという点についてはどう考えるのか? 

A: 犠牲かなあ、犠牲というよりは・・・ 

 Q: 言葉自体がはいってきたり、テーマにもつけてて、子供の発達により添いながらその当時の教えたい中身を入れてるといったら、余計たちが悪いなというような。 

 A: まあ全体としてたちが悪い。子供向きの伝記物語は。 

 C: 私ちょうど 1972 年というと 8 歳、73 年、9 歳のところで、そんときに教材で 1 番、心に残ったごんぎつね、いたずらワンパク者のごんが、いたずらをしたために母親が死んでしまうというところで、そこで後悔をするのだけれども、そのすれ違いによって、結局、撃たれて死んでしまう話。72 年より前にあったのかどうか知らないけれども、そういう時代性というのはたしかにあって、そのあたりやはり教科横断的に検証していくというところは大切なのではないか。 

 C/Q: 1973 年版のものだけ結構長いのかな。教科書版というのはやはり 1 ページ 2 ページ 4 ページぐらいで短くて、1961 年版というのは伝記集の中の一つとして、最後の方が『駄々 っ子ホームラン王ベーブ・ルース』なので、ベーブ・ルースを主題にして結構長く 1 冊書いているのかと思った。 あと、このベーブ・ルースのエピソードにプラスして、推測だけれども、駄々っ子のベーブ・ルースが改心して、何か成功者になっていくというエピソードが書かれているのかと思って、ベーブ・ルースが改心するきっかけとなるようなものとか。 

 A: 病気で入院している子供を見舞いにいくんだけど、約束をして、そして約束通りホームランを打ったとかっていうようなのが有名な話。・・・大人向けの評伝には夜の話みたいなのがいっぱいでてくる。管理野球のなかでは考えられないようなことだけれど、ずっと飲み歩いて朝帰りして二日酔いで試合出たとか、そういうことを平気でやった人間だとか、そんなようなのが大人向け。子ども向けにはそんなのは出てこない。『駄々っ子』ってそんなにエピソードあるかな。本当かどうかは別として、「努力の人だ」みたいな書き方が出てくるところはもちろんある。と同時に、そんなに立派な人ではない。人格的に。そういう意味で言うと、人格的に優れていないけれどすごいバッターだってことはある。 

 C: 時代的には私、王選手のそういう評伝みたいなものを読んだ覚えがあって、王選手はもうすごく礼儀正しくてしかも熱心で努力家でというふうになって、やはりホームラン王というのにはそういうイメージがもしかしたらついていた時代なのかもしれない。 

 A: 活躍する野球選手の描かれ方はそれぞれ面白い。王は日本刀振って練習したと神格化している。衣笠が魂・根性の人。休まない。長嶋はショーマンシップ。簡単なボールでも難しそうにして捕ってみせる。 

 C: 星野仙一は障害のある友達をずっとおぶって学校に行ったという話もある。