【藤井氏による発表の概要】

  教材「星野君の二塁打」が関連付けられている価値は「規則の尊重」や「より良い学校生活、集団生活の充実」という「集団や社会とのかかわりに関すること」である。集団の中での規則、決まり、規範、集団の質、充実などに関わる問題を論じている討議倫理学は、わが国では教育実践との関わりから探究されてきている。道徳だけでなく、他の教科や総合的な探究と結び合わせながら、討議を取り入れながら学びあう共同体、学び合うコミュニティの形成を図る。子供たちの話し合い活動全般の質を上げていくとともに、教室というコミュニティの規範を組み替えていくという期待もあり、こうした観点から討議倫理学は注目されている。 スウェーデンの研究者エングランドは、討議倫理学の観点を取り入れて、学校での教育を念頭に置いた熟議コミュニケーションの五つの特徴を提唱している。そのなかでも、合意に達するための努力や相違点に注意を向けるための努⼒という点には討議倫理の観点がよく反映されており、また、権威や伝統的な見解に疑問を持つことができ、自分自身の伝統に挑戦する機会があるという点は、討議倫理では(コールバーグのいう)脱慣習的段階に重点があるというところとも重なる。 このような観点から「星野くんの二塁打」の資料を見直すと、「同意すること」と「規則を守ること」(あるいは「同意しないこと」と「規則を破ること」)はセットで考えられていて資料の中に含められているが、規則に同意しながらも修正する、あるいは、どこで合意をとって修正するのかといった観点は含まれていない。これは授業の中でも議論が必要になるポイントであり、こうした点が含め入れられることによって、規範というものへの考えが育っていくのではないか。

《主な質疑応答およびコメント》

Q: 道徳教育は慣習的段階の権化のようなものであって、これまで通用してきた価値を引き続き大事にしていきましょうということではないか。だとすると、そのようなコンセプトの道徳教育に、「いやそんなふうに自明的なものとして前提してはならないのだ」という討議倫理学を持ってくるというのは、木に竹を接ぐようなものではないか。 

 A: 教科書の中で道徳の価値というものが明記されていて、その価値を学ぶ教材として作られてはいるが、そのような価値に基づいて授業しなければならないという訳ではない。資料のどこに焦点を当てどのようなシーンを切り取るかによってまた違う読み方もできてくるので、教育実践の観点も必要。また、クラスの状態や子供の状態などによるところもあり、そのあたりは授業者が適切な判断を持っているところ。 

 Q: 星野君がヒットを打ちにいったのは、規則に対する問題を見出したとか納得し難かったので打ちにいったというのではなく、気分が高揚して自分勝手な振る舞いに出たというのが普通の読まれ方ではないか。そこを、既存の規則を修正するという積極的な、ひとつの実践的なアピールであるというふうに読むのは無理があるのではないか。

 A: 教師用指導書にあるように読むことによって明確な方向性が示されるが、そうすると、資料を読むことがそこに道徳の正解があるかのようになってしまう。議論するという土壌に入れることによって解釈や多様な考えというものがでてくる。議論の時間として、もう一度その資料を読み直すという視点でみれば、規則を破るということなのか修正をするということなのかという議論ができる。そのような形でより広く学校の時間を公共的なものとして組み直していくという観点から道徳教育も見直していくことができる。 

 Q: 討議倫理は現在分断の進んでいるネット社会のなかでは大事だと思う。討議倫理として道徳の教育をやっていくときにはどのような可能性があるか。 

 A: 道徳の内容の配列をどのようにするかというところが鍵。例えば規則を守ることが重要であるというところに合意をした授業の次に、しかし規則を破ることもより大きい正義であるということを考えられるような授業を持ってくることによって、規則を守ることそのものも実は破られることがある、そういった観点を育てる事ができる。授業全体は流れの中で構成していくもので、ある程度クラスの中で合意を取りながら、次にまたその前に合意した点をちょっと揺さぶるような教材なり議論なりというものができることが望ましい。資料というのは基本的にはその授業をするための道具。それは、どのように教育の文脈の中で取り扱うのかという実践とセットなので、資料そのものに真理があるいうより、それをどういう授業の中で教材化したり議論の題材としたりするかというところが重要ではないか。 

 Q: 互いに等しい尊敬関係であるとか共同的な関係で討議が行われていく中で、具体的に教師はどんな立ち位置で議論を行うのかが気になった。一緒に探究の共同体のようなかたちでファシリテータとなるのか、あるいは一緒に一員として行っていくのかなど。 

 A: 教師はなにもしなくて子供達にたんに話をさせるというよりは、合意をしていくことや、自分自身の伝統や文化にチャレンジをしていくこと、こうした経験に関わるようなかかわり方が求められてくるだろう。最終的には子供が討議をする主体として育っていくというところが目指されているわけだが、そのためにも教育的な関わりは必要。 

 Q: 実践者、教師はどれぐらい自由なのか。教壇に立つ人間の不自由さには、指導案をちゃんと書いて出せといわれることのような不自由さもあると思うが、もっと内的な、教える側自身がほんとうにその価値を相対化できるか、相対化したところでどこにいくのか、拠り所、足場を取り払われるようなところもある。そういう心許なさのようなものを討議というのは裏にもっているのではないか。またそれゆえに、議論が無難なところへいってしまうことはないか。

A: ひととびに脱慣習的なものが実現されるわけではなく、そうしたものに「向かっていく」という道徳教育の展望・見通しをもっている。実際の学校教育の場面においては確かに、その発言自体がどう解釈されるかとか、あるいは新しいものを意見として述べていくといった際の拠り所のなさというのはある。そうした観点は例えばその議論するそのコミュニティにおけるセーフティを高めることによって保証できる。討議の教育においては、一方ではその討議をするそのコミュニティの質を高めていくとか、あるいはそこのセーフティを高めていくとか、そういったことが同時に実践においては進められるということになるのではないか。 

 Q: スポーツの世界は非日常の公共の世界。それを日常の規範の問題などといったりきたりする。自治というのも、授業の中で無理だとしたら、自治活動・ホームルーム、領域として教科指導と生活指導、全体として学校教育、教育実践などもあるなかで、討議というものが、授業を通して浸透しながら生活実践といったりきたりするということもあるのだろうから、その辺りの可能性を考えていけたらと思う。スポーツの場合は運動会とか体育大会とか教科外活動とかで自分たちが自由に決めて行っていいだろうという領域が部活動も含めて広がっている。部活動などは逆の意味で自治を封じ込めてロボットのような人間を育てるという形でいまはいっているけれども、それもほころびが見えてきて、このままでは生き残れないところまできている。そういうこともイメージしながら脱慣習というところで何かできそうだと思う。 

A: 道徳だけでなく教科の活動、あるいは学校の教育活動の中で広く導入をしていけるのではないか。ハーバーマスの理論だとどうしても話す人とそれを聞いている人との関係でしか議論というものが成り立っていかないが、[議論]それ自体を作っていく集団としてのコミュニティの質が学校教育、教育実践の中では外せない観点である。 

 Q: ハーバーマスの話を私たちはどういう風に受け止めることができるのかが難しい。規則は守るのだが同意しないという組み合わせについては誰もコメントしなかったけれども、日本人はほとんどここにいるのではないか。討議倫理学のいくつかの条件、ホンネで話すというようなことがあったが、どれだけそれを作れるのかというあたりが現実にはしんどいだろうという感想。日本でハーバーマスの考えているようなことを吸収して消化して実践できるのかというような疑問をちょっと感じた。 [自分自身では]道徳の時間に受けたのは単なる圧力だったというものすごく悪い印象。道徳の時間ではない、生活指導などで結局は道徳教育を受けたという印象もなくはない。先生たちとの関係でも、真剣に立ち向かってくれた先生たちとのあいだでは、そのこと自体が自分にとっては意味のあるものだった。 

 A: 熟議あるいは討議に関して、近づき難さのようなものがあるということはよく理解している。日常生活や学校の経験の中の道徳教育に関わるような所での実践もたいへん重要だと思う。しかしながら、道徳の授業や道徳教育の再構成を検討する際に討議は非常に重要ではないか。それぞれのコミュニティの倫理を重視しながらも一方で統合していくような、分断を結び付けていくような観点が含まれているコミュニケーションの理解をしている討議というのはやはり重要。とくに学校を公共の空間として作っていくことにも貢献するだろう。その討議をどういう風に日本の学校教育の文脈の中で続けていくかという課題はやはりある。例えばラーニングと学びの質的な違いはある。最終的にはそれぞれの文化圏にあった独自のスタイルのようなものが立ち上がってくるのではないか。そこに行くにも、討議にチャレンジしていくという方向性を考えている。 

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【有川氏による発表の概要】

  担当する工業高校1、2年4クラスで授業を行った。「星野君の約束違反についてどう思いましたか」のほか、「あなたはチームの主要メンバーです。星野を謹慎、欠場させると聞いてどうしますか」、「あなたは監督です。 この後にどういう行動を取りますか」、「あなたは校長先生です。この話を少し離れた場所で全部聞いていました。この後にどうしますか」、「あなたは星野君の保護者です。夜に結末を子どもから聞いて、どういう行動を取りますか」、 「校長先生が話を聞いてやってきました。監督の考えはわかるが、是非甲子園で勝ってもらいたい。甲子園が終わるまで、校長がこの問題を預かるから、今まで通り頑張ってほしいと言っています。校長先生が『○○君、それがいいと思わないかい』とチームの主要メンバーのあなたに言いました。何と答えますか」といった問いに対する回答を求めた。続いて宇佐美寛の論に見られたような星野の反論を3つ示して、どう思うか尋ねた。生徒が物語の中の人物として考えることにより、真剣に問題に取り組む効果は生んだが、民主的な主体としてルールを自らが作る、考えるようなテーマに向き合わせるのに時間をかけるような工夫が次に必要になると思われる。 モデルが気になった。東京高等師範学校附属中学は東京都の公立中学から甲子園への初出場、大学生監督など星野君のR中學との共通点は多い。大学生佐々木が監督になる経緯やその後の部員との深いつながりが『「甲子園の土」ものがたり』(三浦馨 著、竹田晃 監修)には詳しく書かれている。「甲子園の土」のエピソードは新聞に取り上げられ、教科書にも載るというつながりまで後に生じる。吉田甲子太郎がこの学校に注目し、「星野君」へのイメージ作りにつながったことは大いに考えられる。 

 《主な質疑応答およびコメント》 

 Q: 星野君の二塁打を読むと多くの子どもは「監督がひどい」という。スポーツ少年団の子は、ほかのみんなが「ひどい」と言っていることがわからない。「僕らは監督の言うことに従うから」と対立が起こる。スポーツ少年団の子のスポーツ観を星野君の二塁打によって吐露させるというか、そういう子どもの置かれた立場をみんなで知るというか。小学校4年生を対象に授業することが多いが、4年生の段階ですでに絶対服従など、スポーツ観が分かれてくるのだろう。 

 A:高校生の場合は、野球部員や星野君になり切って答えていくので、「監督は正しい、監督の指揮は正しい、監督の指揮が絶対なのにそれに背いたらチームにならない」という反応をしていたのだと思う。一般的には、「星野もちゃんと良い結果出したのに、なぜ処分するのか」といわれる。[一方では]もう小4の段階で監督絶対という厳しい大人の現実の世界に行くような話になっているので、「いまの教育はどうなっているのだろう、道徳はどうなっているのだ、もっと生徒の自主性を大事にしないといけないのではないか」というような反論になってくるのだろう。 

 C(コメント): 「星野君の二塁打」が教材の初任者研修を受けた女性の先生が、「おかしいと思う。民主的に話し合って決めたらいい」などと言ったら、指導主事に「お前はスポーツが分かってない」と怒られたと言う。それは正しいのか、そのスポーツ観があるべきスポーツ観なのかといわれたら、それは違うだろうと思うけれども、やはり指導主事はそういう風に指導するし、道徳教育としてはそれが正しいという風になっている。そういう現実に直面して、子どもの権利条約という観点でもう一度スポーツ観も体育の先生のスポーツ観も何とかしたいと思う。 

 C:有川さんの発表で思ったのは、高校生の危うさが出ていること。例えばナチスドイツの時、若い兵隊ほど残虐行為をしたと言われている。その辺の危うさが素朴な意見として出ていると感じた。朝日新聞で『「星野君の二塁打」を読み解く』の記事が載った時に、ネットにヤフーニュースで配信された。そこにある沢山の書き込みを見ると、「監督ひどい」という意見は逆に少なくて、「規則守るのは当たり前で、その規則を破っている。そういうふうになると社会が駄目になってしまうではないか」という意見が割とある。さらに、ロザンという漫才師がユーチューブでやったのに対してまた書き込みがある。それは朝日新聞に対する書き込みとは違って、「野球[でこのような話をする]っていうのはどうやねん」などがあった。これも朝日新聞のところで反論で出ていたが、まず「サッカーだったらこれは褒められる」という意見がわりとある。もう一つは、実際の経験として少年野球やった人が、「バントしろと言われたのに、いい球が来たから打って得点が入って、監督に褒められました」という話が書いてあった。みんな「それいい監督ですね」と。それまで星野がひどいと言っていた連中はなんの反応もしない。このようにいろいろな意見があり、スポーツがどうというのは難しいと感じた。 A: 高校生の危うさについて。社会に出て働く、上の指示をしっかり守るんだといって、うちの生徒もわりと言う通りにする。頭髪とか服装とか結構厳しいが生徒はそれ守っている。しっかりやればいいところに就職できるという路線ができているから。 

 Q: 朝日新聞の書き込みでも、「こんなの企業では当たり前、上の言うことを守らなければ駄目だ」という意見があったが、他方でそれに対する反論で、「そういう企業だからイノベーションは生まれないし、どうしようもなくなって日本はダメになっているんだ」というのもあった。やはり熟議して議論するということの中の大切さとしては、上の事を聞いていたら就職できるかもしれないけれど、それがその人自身の自己実現に繋がるかどうかとか、さらにはイノベーションも含めてより良い企業やより良い社会になっていけるか、というところを就職を前にした高校生に考えてもらうこと。 

 A:授業の導入に新聞記事を利用して、組合の話や企業の社会的役割の重要性などにも触れている。大事な視点であるし少しずつ分かってもらいたい。生徒には「先生がむかし言っていたな」と思い出してもらったらいいと考えている。 

 Q: 授業実践で、女性と男性の差が出たことがあるのかどうかという点がひとつ。それから、「星野君の約束違反についてどう思いますか」で、「星野くんが悪いと思う」が46%ぐらい。一方で、保護者に成り代わった時には、「監督に苦情や撤回を求める、話す」などが42%、「監督に謝罪」は1パーセントとあって、突き合わせると興味深い。いろいろな立場に成り代わることによって見解は変わったりする可能性もあるのかと考えさせられた。 

 A: 「あなたは保護者です」といわれたら保護者の立場で、「あなたは校長先生です」といわれたら校長の立場で考えてくれる。だから、はじめの答えと矛盾していてもおかしくはない。星野で聞かれた時は星野、「星野くんについてどう思いますか」と聞かれれば監督の立場やチームメイトの立場で答える。その時はやはり星野の約束違反だということになるのだろう。最初のジェンダーの点については、うちに来ている女子も割と体育会系的な雰囲気はもっていて、あまり女子がいるからと気にしないで済んでいる。 

 C: 論じる時にその前提になっていることが非常に違っていて、じつは次元が違うにもかかわらず、そのまま同じ平面に並べられてしまう。みなそれぞれの思い込みと決めつけでもって語っていて、その結果出てきた星野君像が同じレベルで並んでいるのが現状ではないか。共通の土俵を確保するために、前段階の作業をかなりしないと話が始まらない。『「星野君の二塁打」を読み解く』[第4章]にしても、2段階[構造]で書いているのに、読む側は下の段しか見てくれない。その結果、「監督の肩を持っている」という話になる。これで話を続けるのはなかなか難しい。アスペクトをもっと限定してやればいいとは思うが。 

 C: [朝日新聞の紹介記事に対する反論を読んで思ったこととして、]道徳教育を求める人達というのはいるわけで、社会の道徳的不安というか、「規則や決まりをちゃんと守らなくてはいけない。それを子供達に学ばせなければどんどん悪くなってしまうではないか」というような不安を持っていると受け取った。他方で、ちゃんと守らなあかんと思っている高校生がたくさんいたりする。そういうずれとギャップがあるところに道徳教育を進めようとしている。

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 《以下、自由ディスカッション》 

 C: 初任者研修で星野君の二塁打やれといわれて、「星野君は規則を守らなかった悪い子だという筋の授業をやらないとダメだ」と、いわば上司から、教育委員会の指導主事から言われる。文部科学省の方で指導要領や指導方法を考えて、研究者も協力してやっているものと、教育員会レベル、指導主事レベルの初任者研修でやっているのとの水準が全然違っていて、たぶん何十年も同じ事やっているのだと思う。工夫してはいけないといったらいいか、考えてはいけないといったらいいのか。そういうことを文科省は言わないと思うし、教育委員会・指導主事全部にしても全部がそうだというわけではないのだろうけれど、目指されていることとは違う実態のようなものがあると思う。 

 C:道徳の教材では[ある程度の長さのある原作のうち]あるところだけ引っ張ってきて、最後[=結末]はないというのはたくさんある。著作権法上、教科書は原作に対してどんなにいじってもよいということになっているのだけれど、元の話と話が違ってしまうような利用の仕方は許されるのかどうか。道徳教育以前に、こんなことがあっていいのかという思いがある。法律があるならそれこそ法律のほうを検討したほうがいい。それで有名なのは「星野君の二塁打」と「手品師」らしいが、そんなのはゴロゴロあるのだと教育学者の人が書いていた。許される範囲と許されない範囲があるのではないか。教育的意図があってということでやったとして、「星野君の二塁打」の場合、ちょっと古い実践だと、みんな「星野君は悪い」ということになっていて、「まねしちゃいけない子だよ」という。しかしそうではないのが原作。吉田甲子太郎は星野君のことが大好きで[原作にあるように]表現しているのだから。そういうことは教育学の観点から許されるのかという議論をすこししてもらえるといい。 

 C:教科書に教材として載っているものを授業の中でどのように使うかというのは授業者に委ねられている。資料を例えば途中までしか使わないとか、そういう授業もある。授業者の教育の狙いに応じて使用されるもの。 

 C: 「中断読み」の人たちは「星野くんの二塁打」は中断読みに適していないと書いている。そもそも教材が「中断」になっている。そういう意味では、原作全体を踏まえて先生が知っていて、で、「教材はこうなっているけど[原作は違う]」という態度で授業に臨めれば、適した教材かもしれない。 

 C: 生活綴り方というのは作文だけれども、ある種総合的で、自分のことや自分の生活を振り返って言うので道徳や倫理にも関係する。教えるべきことが先にあって教えていくような授業ではなく、子供たちの生活があり、そこで書いてもらったことがあって、教師とその子、場合によってはクラス全体で共有してなにか考えていったりする。 星野君の二塁打を読んだ5年生か4年生かの感想(スピンオフ)が一行あって、「星野君はその後野球をやめました」。ピアノが大好きでピアノの練習としてきたのだけれど、家庭で「ピアノを止めて学習塾に行きなさい」と言われて、無理やり辞めさせられた。そのときに書いた文章だった。星野君の場合は監督と星野君だが、書いた本人にとっては自分と親との関係のなかで、自分が本当に好きなこととやりたいことを辞めさせられてしまったようななかで、「星野君は好きなんだけど辞めちゃいました」という意味で「星野君は野球をやめました」と書いた。4.5年前に聞いた話で、一番印象に残っている話。 担任の先生はこの一行を読んで、この子の悲しみを理解した。この子の生活と悲しみを理解して教師が子供に共感している。で、子どもが今度は星野君に共感したのだと思う。文学の世界は前向きな発達みたいな、成長みたいな話だけではなくて、子供の悲しみのようなものに共感して、それが豊かになっていくというそういう世界でもあるだろうと。もっといろいろあるだろうけれど、そういう豊かな経験の方がいい。 

 Q: 『「星野君の二塁打」を読み解く』を書こうとした時、最初は、ジュブナイルとして、成長物語として、文学作品として、人間形成のところで読むとどうなのだろうということを書こうと思っていた。子どもたちが読むものとして吉田が書いたものではないかということがあって、そういう本来の吉田、これは―米津さんも最後のところで書いている―「世界と子供たちがつながっていく[ことをたすける]教育であってほしい」というところ。このあたりについて藤井先生の考えを聞きたい。 

 A: 文学作品として読むというのはすごく面白い。そういう風に読む場合は、一人の男の子が成長していくとか、壁にぶつかるとか、いろいろ思い悩んでいたとか、そうしながら世界や社会というものを解釈しながら、また、それに対峙していきながら、自己を形作っていくとか、読めると思うし、文学として読む豊かさというのはある。道徳として読む場合においては、その物語が持つ構造について議論するとか、あるいは、どの点だったら合意できるかとか、そうした点を育てていく必要がやはりある。しかし結局、討議をしていくというのは人間が自分をどういう風に考えていくかというアイデンティティというか、自分自身の考えを獲得して形成していくということなので、そこにおいては人間形成も接続してくる。人間形成と討議、道徳意識の形成といったところと結びつくような形での道徳教育という、すこし広く考えていくような方向性というのもあると思う。ただそれを日本の学校教育でどういうふうに考えていくのかとなった時に、いくつか検討しなければならない点もある。ひとまず道徳教育の中では討議実践を定着させていく、あるいはそれを獲得していくという提案をしている。同時に教師教育も必要だろう。教材そのものをどういう風に読んでいくか、教材が持つ構造を獲得すると同時に、前提になっているもの、また書かれていないことを読んでいく。だから、道徳は他の教育活動と質が違うところがあるというところももう少しきちんとアナウンスしていく必要があると考えている。 

 C:今回、ジュブナイルとか人間の成長物語の流れをおいた時に、ドイツのゲーテの作品(『若きウェルテルの悩み』や『ウィルヘルム・マイスターの修行時代』)が避けて通れないと思った。ドイツの考え方のものと吉田の欧米系のようなものが、社会の中でどうやっていくかということについて考える材料になる。付け加えて言うと、星野君が調子に乗って打ったという風な見方もできるけれども、若きウェルテルから考えられるところは、そこ[=調子に乗って打ったというところ]がやはり出発点、若者の出発点なのかもしれないということかと。私は星野派なので。 

 Q:『「星野君の二塁打」を読み解く』の執筆者4人は、まだまだこのことやっていかなければならない使命を帯びているので、注文、助言、提案などあればお願いしたい。 

 A: 現在提示されている教材がどのような形であれば、より討議に適してくるのかというところの提案などがあると議論がしやすい。授業の中で討議を可能にするために、さらに教材化していくという観点で、何か提案をしてもらえると議論も活発になるのではないか。 

 A: 今回のように、視点を変えたりいろんな方に意見聞いたりすると、また別の発想で研究に広がりがもてるのではないか。 

 A: スポーツのドキュメンタリーも含めて、昔から文学作品として、スポーツの中の人間の成長を豊かに描いている作品がたくさんあって、そこのところがまだまだ紹介されていない。スポーツ競技の関係者も知らないという状況があるのだということはすごく感じた。 現場で道徳教育やらなければいけないと思って、小学校の現場の先生と研究会しているので、討議というところで可能性を開くように、もうすこし教材作りとか、きょう紹介してもらったような観点も含めて紹介しながら、[やっていきたい。]やはりスポーツの場面というのは、生活と科学をつなぐ中で、葛藤をつくるという意味でも、成長の方にも可能性があると思っているので。  

A: とにかく今の道徳の教材は悪いと思っている。子供の思考をいろいろ振り回しておきながら、最後は教師が「決まりとはどういうものなのでしょうか」ということを子どもに問うて、結局、決まりを守らなかった星野君が悪いみたいな。そういう押し付けでないような教材のあり方を考えてもらえたらと思う。