オルシャヌィ墓地

現在科研費を受けてプラハにおけるロシア人亡命者の研究を進めているが、研究分担者の一人阿部賢一・武蔵大学准教授にはいつもお世話になっている。今回もプラハを訪れるにあたって、阿部准教授の報告「オルシャヌィ墓地――その歴史と表象」のレジュメを持参し、(ユダヤ人墓地の)入口でその地図を見せながら、ここを訪れたいと話すと、(カフカの墓に来たのではないと納得した)管理人はロシア人墓地の一角を訪れる道を教えてくれた。
ロシア人墓地の一角にはロシア正教の教会があるが、そのまわりをめぐっていると、18区画になんとナボコフのお母さんの墓(正面の道沿いの墓)があるではないか。ShrayerのThe World of Nabokov's Russian Storiesに出ていたことはすっかり忘れていた私は、喜んで墓をカメラに収めた。3月とはいえ、なんとも寂しい墓で、きっと訪れる人もまばらなのだろう。ただ、「ペトログラード、ヤルタ、ファリロン、ロンドン、ベルリン、プラハで、一家と生活をともにし、亡命の貧しさと孤独のなかで、エレーナ・ナボコフの親友となり、彼女の欠くことのできない支えとなった」(ブライアン・ボイド『ナボコフ伝 ロシア時代上』、拙訳、白水社、2003、126ページ)エヴゲーニヤ・ゴーフェリドが一緒に葬られていたのは救いだったが。
さらに、周囲を回っていると、モスクワ芸術座で有名なウラジーミル・ネミロヴィチ=ダンチェンコのお兄さんで、亡命後しばらくはプラハの亡命文学界で重きをなしていたワシーリイ・ネミロヴィチ=ダンチェンコの墓も見つかった。これまたRussian Pragueが遠い過去になったことを痛感させるような寂しげな墓だったが、だからこそその時代を忘れさせない努力も必要だと感じながら、この墓地を後にした。