ナボコフこぼれ話(その6:ヤイラ)

自伝の『記憶よ、語れ』の第12章にノスタルジアについて印象的な記述がある。ナボコフにノスタルジアを呼び起こすのは、ロシアなら何でもよいのではなく、ペテルブルグ地方を連想させる土地だけだと述べた箇所だ。
この箇所は論文でもよく引用してきたが、一つよくわからなかった言葉があった。大津栄一郎氏の訳では、「ヤイラ地方」と訳されている言葉だ。英語ではthe Yaylaだが、「ヤイラ地方」だとすれば固有名詞なのだろうか。ロシアの地理に詳しくない身にはどうもピンとこない。
さて、ヤルタの歴史文学博物館を訪れたとき、立体地図にこの単語を見つけて館員に尋ねてみた。アイ・ペトリ・ヤイラなどとあるから「山地」の意味かと思うと、そうではなく、どうやら家畜の夏の放牧地らしい(じつは辞書にはこの意味が載っている)。固有名詞ではなく普通名詞だということはわかったが、いまひとつピンとこないので、帰国後ネットでいろいろと調べると、元来は放牧地の意味だったらしいが、クリミア地方ではいまはその意味ではほとんど使われておらず、山の頂が台地状になって、木ではなく、草が生えたこの地方独特の高原を指すとある。おまけにトルコでもこの語はふつうに使われているらしいこともわかった。
ナボコフが蝶を採りに歩いたというアイ・ペトリ山は海側から見ると険しい山のようだが、立体地図で見ると高原のような山の連なりだった。実際に蝶採集などでここを歩き回ったナボコフにとって、まさしく「ヤイラ」だったのだろう。まあ「ステップ地方」とか「ツンドラ地方」という表現も可能だから、「ヤイラ地方」も間違いとはいえないが、これが固有名詞ではないことだけは確認しておく必要があるだろう。