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湯川修三の青春無線日記

 「並三ラジオ」
 2  「部品集め」
 3  「廃品ラジオ」
 4  「ゲルマニウムラジオ」
 5  「五球スーパー」
 6  「ワイアレスマイク 」
 7  「破壊されたテレビ」
 8  「抵抗器の計算」
 9  「短波との出会い」
 10  「並三ラジオ再び」
 11  「五球スーパー再び」
 12  「送信機の自作」
 13  「いよいよ開局へ」
 14  「電信級へ」
 15  「青春の光と影」
 16  「無線と青春」
 17  「電波障害発生」
 18  「無線、音楽、そして青春」
 19  「送信機の改造」
 20  「体育祭」
 21  「時代のうねりの中で」
 22  「浪人時代と無線」
 23  「大学生になって」
 24  「荒れる大学」
 25  「就職」
 26  「いよいよ教員に」
 27  「第二の青春」
 28  「クラブ局」
 29  「時代の流れの中で」


湯川修三の青春無線日記

   作 大山哲生

  「並三ラジオ」     

 その子は湯川修三といった。中学2年生である。

 時は、1964年、春。

 ある日のこと、同じクラスの吉崎が、

「湯川、今日放課後に山上とこにいくんやけどいっしょにこないか」

と声をかけてきた。吉崎とはあまり話したことはなかったが、誘われたのははじめてであった。楽しそうなのでいっしょに行くことにした。

 放課後、修三と吉崎と山上は少し山手を歩いて、山上の家に行った。

 玄関を入るとすぐに山上の部屋である。

 薄暗い部屋に目が慣れてくると、本棚の機械に目が行った。

「山上、これはなんや」修三は興奮した声で聞いた。

「ああ、これは並三ラジオや」

『ナミサンラジオ』それは、修三が生まれてはじめて聞く、生まれてはじめて見る不思議な物体であった。そして今、ラジオと言われてもにわかには信じがたかった。

 それはアルミの台に部品が取り付けてあり、古くさい真空管が3本並んでいた。スピーカーは横にころんと転がしてあるだけだった。修三には何がなにやらわけがわからない。

 スイッチを入れるとカツウンとアルミの台にスイッチの音が快く響いた。やがて大きな真空管が赤く光ると、転がったスピーカーから突然『ああ、上野駅』が流れてきた。確かにラジオ放送だ。

 修三は、目も耳も釘付けになった。体中にまるで電気が走ったような気がした。ラジオというものは四角い箱で鳴るものだと思い込んでいたから、こんなごつごつした無粋な機械のかたまりから、やさしい音楽が聞こえたことが不思議でたまらなかった。

 バリコンという得体の知れない見たこともないものをゆっくり回していくと、別の放送が聞こえた。

 修三は、なんだか言葉にできないとてつもないショックを受けたのであった。

 吉崎といっしょの帰り道、今見たごつごつした機械のかたまりのことをずっと考えていた。

「おれも、あんなラジオを作ろうと思ってる」と吉崎が少し興奮して言った。

「おれもや」と思わず修三は言った。

「山上から初歩のラジオという雑誌を借りてきたんや。おれが読んだら湯川にもまわすわ」

と吉崎は言ってくれた。

 その夜、勉強をしながら、修三は山上の並三ラジオのことばかり考えていた。

 このとき修三は、今日見た並三ラジオが自分の人生を決定づけるほどの力があるとは夢にも思っていなかったのであった。

 

湯川修三の青春無線日記 2

  「部品集め」     
その子は湯川修三といった。中学の
2年生である。

 1964年のことである。

 その後修三は、山上の家に週に3回くらい行った。

 山上の部品箱にはいろいろなものがある。ひときわ重い鉄の塊を取り出してみる。

「それはトランスや」山上が言った。

「トランスってなにするもんや」

「トランスは電圧を変えるものなんや。コンセントは100ボルトやから、それを真空管のヒーター用に6.3ボルトとかに変えるんや」

 このとき、修三はコンセントが100ボルトであることを初めて知った。

 実はトランスには見覚えがあった。小学生の頃、父親がラジオのダイヤル糸を取り替えていたのを見ていたが、このトランスの中に小人が入っていて歌ったりしゃべったりしていると本当に思っていた。

 今、トランスの仕組みを聞くといささか夢がこわれたような気もしたが、むしろますますラジオ作りに興味がわいていったのであった。

 何回も山上の家に行ってるうちに、だんだん電気部品やラジオの仕組みがわかってきた。

 山上は、いくつか部品をくれたりした。修三は抵抗器やコンデンサーはこうやって手に入れた。

 吉崎から初歩のラジオが回ってきた。修三にはわからないこともあったが、山上から教えてもらったことがいい予習になって、それなりに読み進めることができた。

 雑誌を読んでいてわかったのは、ラジオを作るにはどうしてもトランスがいるということであった。当時、ラジオ仲間の間では部品の交換をしていたが、その中でもトランスは一番価値が高いものであった。修三はトランスと交換できるものを持っていなかった。だからトランスは買わねばならなかった。

 母親に理由をいうと、お金をくれた。修三は、自転車で寺町の電気屋街にいって部品屋に入った。そこには、修三にはまぶしいほどの新品の部品が並べてあった。ほとんどが初歩のラジオで見たことがあるものだった。新品のバリコンが金色に光っているものだということを初めて知ったし、新品の抵抗器から出ている二本の針金は割と長いものだということも知った。

 修三はとりあえず45ミリアンペアの黒い電源トランスを買った。あれもほしいこれもほしいと思って見ていると、店の一番奥に黒っぽい金属製のラジオのようなものが並べておいてあった。後日、それはアマチュア無線機であることを知るのであるがその時は関心がなかった。

 その後も部品を買ったり、交換したりしていたが、なかなかラジオを組み立てるまでの部品は集まらなかったのであった。

 

湯川修三の青春無線日記3

  「廃品ラジオ」   

 その子は湯川修三といった。中学の2年生である。

1964年。

 修三は、なんとしてもラジオを自分で組み立てたいと思った。しかし部品が足りない。自分が作りたいラジオの部品もいるが、交換用としても部品も必要である。

 ある日、学校の休み時間に山上から廃品回収の店にいくと古いラジオが買える、という話を聞いた。

 次の日曜日に、修三は近くの廃品回収の店に行った。せまいところに、電蓄や大きな無線機のようなものなどいろいろなものがうずたかく積まれていた。修三はその中に木枠で作られた古いラジオを見つけた。いくらかと聞くと百円であった。修三のお年玉は百円であったから高いと思ったが、今は部品のことしか頭にないので、百円札を出してそのラジオを買った。

 修三の家は団地の二階である。ラジオを分解する場所はせまいベランダしかない。

 悪戦苦闘が始まった。さびついたねじを回すのは大変苦労したが、部品交換で最も価値の高い真空管、トランス、スピーカー、バリコンがまず手に入った。修三はわくわくした。

 抵抗器やコンデンサーは、ペンチで切っていく。真空管のソケットは最後にはずす。

 3時間近い格闘の末、ほぼすべての部品をばらばらにできた。とりだした部品はそばぽうろの金属カンに入れた。

 父親は、ベランダの惨状を見て、あきれた。

「この箱と金属の台はどうするんだ」と聞いたので、修三は「あとはいらない」と答えた。

 あとは父親がかたづけた。

 修三は自分の机の上に改めて部品を並べてみた。スピーカーはほこりをとるとぴかっと光っている。そしてスピーカーというものには厚紙がはってあるということをはじめて知った。バリコンもくるくる回してみたが180度しか回らないということもこのとき知った。トランスには消えかけた文字で『50ミリアンペア』と書いてあった。

 修三は、それらの部品が初歩のラジオという雑誌に出ていた写真と同じことに驚き、胸がわくわくとときめいたのであった。

 

湯川修三の青春無線日記4

  「ゲルマニウムラジオ」    

 その子は湯川修三といった。中学の2年生である。

1964年。

 修三は、なんとか自分でラジオを作りたいと思って、借りてきた「ラジオの製作」という雑誌を見ていたとき、ある製作記事に目が釘付けになった。それはゲルマニウムラジオであった。

 早速、部品を調べて見た。バリコンはある、コイルも廃品ラジオからとったのがある。

 ないのはクリスタルイヤホンとゲルマニウムであった。

 修三は、真空管を一本ポケットに入れると、山上の家まで自転車を走らせた。

「山上、イヤホンもってるか。もってたらこの真空管と交換してくれないか」

 山上は部品箱をごそごそ探していたが、やがて線をくるくると巻いたイヤホンを出してきた。

「これ6ZP1という真空管やけど」と修三がいうと、山上は快く交換してくれた。

 山上の家で手に入らないのがゲルマニウムダイオードであった。修三はさらに自転車で20分ほど走って模型屋に言った。この模型屋は当時流行っていた模型飛行機を専門に扱っている店であった。

SD46というゲルマニウムはありますか」と修三は聞いた。SD46という型番名を言うのが恥ずかしいような誇らしいような気持ちであった。

店主は小さな引き出しをそっとあけた。そこには、ガラスのビーズ玉から両方に針金のでているものが何十本もあった。

 修三は一本買った。70円であった。

 家に帰るともう遅かったので組み立ては明日にすることにした。

 その夜は、ゲルマニウムを机の上において眺めてみた。直径が3ミリほどの小さなガラス玉のようである。よく見るとガラスの端に赤いラインがある。雑誌を見てみると、プラスかマイナスかの印だということであった。

 翌日、初めて半田ごてを使ってゲルマラジオを組み立てた。ハンダはそう簡単には溶けなかった。修三は何度かこてでやけどをした。半田ごてでやけどすると皮膚が茶色くなる。

 ラジオが完成したときには、左手の指先に4カ所ほど茶色いところができていた。

 アンテナがいると書いてあったので、はりがねをベランダの物干しに結んでラジオにつないだ。バリコンを回していくと、音楽が聞こえたのである。鳴っていたのは、シルビーバルタンの『アイドルをさがせ』であった。

 その夜修三は、父親にも母親にも兄にも姉にもそのラジオを聞かせた。みんなほめてくれた。

 修三は、うれしくてラジオを聞きながらゲルマニウムラジオの製作記事を改めて読んでみた。読みながら自然と笑いがこみ上げてくる。

 それからというのものは、そのラジオを聞きながら勉強するくせがついてしまった。

 テストの点が下降線をたどり始めるのにそう時間はかからなかった。ここにきて、修三は初めて自分と戦うということを覚えたのであった。

 

湯川修三の青春無線日記5

  「五球スーパー」    

 その子は湯川修三といった。中学の2年生である。

 1964年のことである。

 修三は、なんとしても五球スーパーをつくろうと思った。雑誌の部品表を見るとほとんどの部品はある。ただその中に中間周波トランスというものが2ついると書いてある。写真を見てあっと声をあげた。長細い金属の箱に入ったものである。そう言えば廃品ラジオを分解したときにあったような気がする。あれは、ばらばらにしてまいてあったコイルを全部ほどいたのである。そして、小さなコンデンサーも切り取ってしまったのであった。

「そうか、あれは分解してはいけないものだったのか」と後悔した。

 ある日、修三はポケットに真空管とバリコンをいれて山上の家に行った。

「中間周波トランスてもってるか」修三は聞いた。

山上は二個もっていたが、自分もこれがいるので交換できないということだった。

 家に帰って修三は考えた。こうなったら、またまた廃品ラジオを買いにいくしかないと。

 次の土曜日に、修三は近くの廃品回収の店に行った。そこで古いラジオを100円で買った。ベランダでの悪戦苦闘がはじまった。いろいろな部品が手に入ったが、特に中間周波トランスはていねいにはずした。

 これで部品はそろった。買っておいたアルミの台に穴をあけた。特にトランスを取り付けるには、四角い穴をあけなければならない。手回しドリルでたくさんの穴をあけて切手のように四角くちぎっていく。修三の手は真っ赤になり、ドリルをまわす指先が痛みを感じるようになってきた。歯をくいしばって全部の穴をあけ、なんとか部品を取り付けた。

 配線は学校から帰ってから少しずつ進めた。先に抵抗器とコンデンサーを取り付けてしまったので、配線は混乱の極みとなった。やがてアルミの台の裏はオレンジ色のビニル線が縦横無尽にいきかう蜘蛛の巣のようになった。

 とにもかくにもついに完成したので、点検もせずにスイッチをいれた。煙も火花も出ないので配線はうまくいったと修三は思った。しかし、鳴らない。よく見ると、真空管が赤くなっていない。真空管へのヒーターの配線を忘れていたのだ。それをすませて再びスイッチをいれた。真空管は赤く光ったので、修三はわくわくした。が、うんともすんとも言わない。修三は配線を見直す力もなかったから、どうにもできなかった。

 近くの商店街に電気屋があったので、そこへ持ち込んで見てもらった。

 店員は、わかりませんということであった。

 結局、この五球スーパーは鳴ることはなかった。

 山上と吉崎からは、「ゲルマラジオからいきなり五球スーパーは無謀やな」と言われた。

 修三は冷静に考えた。なるほど、ラジオの仕組みも何もわからないのに無謀だったかなと思った。

 そして今まで両親がいろいろと自分を助けてくれたが、ラジオ作りに関しては両親といえども自分を助けることはできないということを学んだのであった。

 修三は、ひとつ大人になったのであった。

 

湯川修三の青春無線日記6

  「ワイアレスマイク」     

 その子は湯川修三といった。中学の2年生である。

 1964年のことである。

 夏休みになった。開放的な気分も手伝って、手元にある部品を使って何か作りたいと思った。借りてきた初歩のラジオという雑誌をみていると、やけに部品のすくない回路図が目に付いた。

『単球ワイアレスマイク』というものであった。使うのは真空管一本。コイルは五球スーパー用だからひとつ持っている。部品もそろっている。電波が飛ぶからおもしろそうだ。

 修三は、以前作って鳴らなかった五球スーパーを土台にしてワイアレスマイクの製作にとりかかった。一日で完成した。早速スイッチを送信にしてみた。電波が出ているのかどうかがよくわからなかった。そろそろあきらめかけた時、コイルの調整をしていると突然トランジスタラジオにサアーッという音が聞こえた。胸がドキドキして、マイクで「あーあー」としゃべると、少し割れたような音ながらトランジスタラジオから『アーアー』という音がしたではないか。「やったっ。電波が出てる」修三の胸がはやがねのようにうった。

 電波が出たことでわくわくしたが、さてこの電波がどのくらい遠くまで届くのかを知りたくなった。

 修三は家にあった電蓄をワイアレスマイクの横に置くと、一枚だけもっていたレコードをかけた。

 電蓄でベンチャーズのダイヤモンドヘッドをかけてスピーカの上にマイクをおくと、トランジスタラジオを耳にあてたまま、急いで団地の階段をおりた。たしかにベンチャーズのダイヤモンドヘッドが聞こえている。ただ、この曲は2分半ほどで終わるから、その間にできるだけ遠くまで走らねばならない。

 ベンチャーズのレコードが鳴っている間にどこまで電波が飛んでいるかを調べたのであった。五十メートルほど走った頃ベンチャーズは聞こえなくなった。結局団地の横の道路あたりまでは電波が飛んでいたのだった。

 修三はわくわくした。やった、成功だ。こんな機械で電波が飛ぶんだと実に不思議な気持ちで、自作の単球ワイアレスマイクを眺めた。自分が作ったワイアレスマイク。見てくれは少々不細工だが立派な放送局だ。

 この成功を伝えるため、まず吉崎の家に行った。

「おれ、ワイアレスマイク作ったで」修三は言った。

「ほんまか。おれは今、並三ラジオをつくってるとこや」と吉崎は言った。

 修三は誇らしかった。ひとつでも成功させたらラジオ仲間に自慢できたからであった。

 次は山上の家に行った。

「山上、おれなワイアレスマイク成功したで」

「ほんまか、五十メートルも飛んだんか。すごいやんけ」と山上は言った。

 その夜、両親にワイアレスマイクで電波が飛んだという話をした。

「そうか、放送局みたいやな」と母親は驚いた。

 それから家族の間で電波の実験大会が行われ、修三のしゃべる声を順番にラジオで聞いたのであった。

 

湯川修三の青春無線日記

  「破壊されたテレビ」    

 その子は湯川修三といった。中学の2年生である。

 1964年のことである。

 修三の隣のクラスに足立という電気屋の息子がいた。修三と山上と吉崎と足立の四人で話をして、足立の家のいらないテレビを分解しようということになった。

 家に帰ると、全員足立の家に集合した。そして、いらなくなったテレビ三台を持ち出し国鉄の線路脇に運んだ。周りに家はなくうら寂しい場所であった。

 それから、みんなで部品取りをした。25E5という水平出力管が三本手に入った。この真空管は大きくて、そのまま使っても大出力の送信機が作れるものであった。小さい真空管もすべて抜いて皆で分けた。抵抗器やコンデンサーもとれるだけはとったけれど、なにせ複雑すぎてとれないものもあった。

 皆で今手に入れた部品を見せ合いながら、話をした。25E5という水平出力管を手にしながら、山上が、

「アマチュア無線をしてる人はこんな真空管で電波を出してるんや。この真空管はすごいんや」

という話をした。修三は、このときアマチュア無線という言葉を初めて聞いた。しかし、やりたいとは思っていなかった。

 部品どりもすんだので、テレビをならべなおして、みんなでブラウン管めがけて石を投げた。

『バクン』

といって、ブラウン管は破裂した。

 修三は家に帰って今日の戦果を見てひとりにやにやとしていた。

 翌日、学校にいくと、足立の周りに昨日のメンバーが集まっている。

「テレビを破壊してほったらかしにしてきたからお父さんに怒られた」

ということであった。

 みんなで相談して、学校の帰りに足立の家に謝りに行った。

みんなで「すみませんでした」と頭を下げた。

 足立の父親は、ひどく怒っていたが最後は許してもらえた。

 テレビの分解は後味の悪いものになってしまった。

 でも、25E5を見ながらこれで電波が飛ぶのかとにやつくのはかわらなかった。

 修三たちは、それ以後テレビの分解はしなくなった。

湯川修三の青春無線日記8

  「抵抗器の計算」     

 その子は湯川修三といった。中学の2年生である。

 1964年のことである。

 修三のラジオの知識が少しずつ身についていたころ、ちょうど理科の授業で抵抗値の計算を習った。抵抗器を並列や直列に配線したものを計算式で抵抗値や電圧・電流を計算するのである。修三は、実際に家で抵抗器というものを見て知っているから、興味がわいたし、よくわかった。

 山上や吉崎と休み時間も問題集にかじりついて計算競争が始まった。その中に、沢井和夫も加わるようになってきた。最近沢井もラジオに興味をもっていて、ラジオ仲間に加わったのであった。山上と沢井は、クラスの1番と2番というところでどの教科も勉強がよくできた。

 沢井は、非常に難しい抵抗の問題をよくもってきた。私たちは、休み時間になると、その問題に挑戦して没頭していた。だいたい一番早く解くのは山上であった。

 ある日、修三は近くの商店街にある冨士屋書店にいった。この本屋は間口3メートルくらいの小さな本屋である。修三ははそこで、理科の問題集を5冊ほど買った。

 家に帰ると、抵抗の問題だけを必死になって解いた。するとかなり難しい問題もけっこう解けるようになってきた。

 学校で問題の解きあいをしても修三が一番早く解くこともあった。するとまたおもしろくなり、また家で勉強する。抵抗の計算については、いい循環で家で勉強する習慣がついてかつ学校でも勉強するようになった。

 やがてテストがあった。いわゆる小テストで抵抗の計算だけのテストであった。

 テストを返してもらったらラジオ仲間で見せあいをした。

 山上は100点であった。沢井は98点。吉崎は88点、修三は85点であった。

 4人の中では一番低かったけれど、修三が80点を超したのは始めてであった。

 このとき、修三はあることを知ったのである。

 勉強すればテストの点はあがる、という単純な理屈であった。

 その後、理科や他の教科についても、ラジオ仲間で競い合うように勉強の話をした。

 中間テストがあった。理科は抵抗の分野も出題されたがそれ以外のところも出題された。

 修三の点は55点であった。確かに抵抗のところはすばらしくよくできていたが、他の分野がほとんどできていなかったのである。要するに修三は、好きなところだけ勉強をしたが苦手なところはあまり勉強をしなかったのであった。

 他のラジオ仲間は75点以上はとっていたから、なんだか仲間はずれになったようで寂しい思いをした。

 修三は、それから少しは真剣に勉強するようになった。

湯川修三の青春無線日記9

  「短波との出会い」   

その子は湯川修三といった。中学2年生である。

1964年のことであった。

修三は毎週、山上の家に遊びに行った。部品の交換もやったが、なによりラジオの知識を増やせるのが楽しかった。

 ある日のこと、いつものように山上の家にいっていろいろとしゃべっていると、短波とか、7メガサイクルとかいう言葉が出てきた。修三は,短波という言葉は、父親愛用のトランジスタラジオが短波を聞けるものであったので名前はしっていたのであった。

 しかし7メガサイクルは特に気にもとめたことがなかったので、なんのことだろうと思った。

7メガ聞いてるとアマチュア無線の交信が聞けるで」と山上は教えてくれた。

修三は家に帰ると、父親のトランジスタラジオを借りて、7メガサイクルあたりにダイヤルをあわせてみた。しかし、クルクルまわしても、それらしいものは一向に聞こえない。

 そこで、以前使った針金アンテナをつないでみると急にラジオの雑音が大きくなった。

 ダイヤルを回すと突然放送が聞こえた。

『こちらは ペキン ホソキョクです』

北京放送であった。しきりに何か言っているが、修三はそれが日本政府を激しく攻撃しているものだと理解した。内容はともかく、聞こえたことがうれしかった。

 次ぎに7メガ付近をそろそろとまわしていると、放送とは違う声が聞こえた。

『シーキューアンドスタンディングバイ』

『シグナルレポートはリーダビリティファイブ、シクナルストレングススリーで入ってます』

『終段はハチマルナナ』

修三は、これは英語の放送なのかと思った。

しかし『明日はテストですが、出てきました』というのを聞いて、これがアマチュア無線なのだとわかった。わからない言葉も多かったけれど、聞いているだけで浮き浮きしてくるのであった。

 翌日、休み時間に教室の隅で、修三、山上、吉崎の3人は7メガの話をした。

わからない言葉もだんだんわかるようになった。そして、アマチュア無線はコールサインというものがあるということも知った。

 夜、トランジスタラジオを耳につけてきいていると『ジェイエースリー』という言葉がしきりに出てくることに気が付いた。おそらくこれがコールサインというものだろうと修三は理解した。

 ダイヤルをゆっくりと回していると、モガモガモガというおよそこの世のものとはおもえない音が聞こえてきた。次の日に山上に聞くと『エスエスビー』というものらしい。

 修三は、フーンと納得したが実のところなんのことかさっぱりわからなかった。ただ、あれが、人の声だということはわかった。

 毎日のように、7メガを聞いているとどの局がどこに住んでいるかだんだんわかってくる。

 ある日、山上と吉崎と修三は自転車でアンテナ見学に行った。どの家かはわからなくても、上を見ていればアンテナはすぐに見つけることができた。だいたいは竹を2本立てて、その間にテレビの線を張っていた。後に、これがダブレットアンテナだと知った。

 その後も修三は、勉強しながら短波放送やナナメガを聞いた。そして、いつか自分も電波をだして楽しい話の中に入りたいと思うようになってきたのであった。

湯川修三の青春無線日記10

  「並三ラジオ再び」     

 その子は湯川修三といった。中学2年生である。

 1964年のことである。

 修三は、やはりラジオを作ってみたかった。以前、五球スーパーは失敗したから、今度はもう少し簡単なラジオがいいと思った。

 山上から借りた「ラジオの製作」を見ていると、あるラジオが目に付いた。

 それは、「単球並三ラジオ」というものであった。並三の「三」は真空管を三球使うという意味であるから、単球というのは不思議だった。

 回路図を眺めると、まず電源の整流はセレンという半導体ですると出ている。修三の今までの知識だと、セレンのかわりに真空管で整流しても同じだとわかった。

 あとは、12BH7Aという三極管がふたつ入ったテレビ球を使うということであった。

 この真空管は、以前テレビをこわしたときに、何本か手に入れていたものであった。

 これは作れそうだと修三は思った。

 調べて見ると、並四コイルというものがいるが、これは持っていなかった。また再生バリコンというものもいるが、これもなかった。

 修三は理由を言って母親からお金をもらうと、町の部品屋に自転車を走らせた。部品屋につくとトリオ製の並四コイルを買った。70円であった。バリコンも買った。

 さっそく、以前に作ったワイアレスマイクを分解して、新たに並三ラジオを組み立てた。

 再生バリコンを取り付けようとすると、穴が小さすぎて入らない。アルミの台をベランダに持ち出すと、リーマという工具でゴリゴリと穴を広げた。やっと全部の部品をとりつけて、まずヒーターなどの線類を配線し、そのあと抵抗器やコンデンサーを取り付けていった。

 テスターは持っていなかったから、ざっと目で点検をしてスイッチを入れた。

 うんともすんとも言わない。再生バリコンを調整するが、一向に鳴る気配はない。

 修三の家はせまい団地であった。修三の机のおいてある部屋は、午後10時を過ぎると両親の寝室になる。こうなると、勉強をやめて別の部屋に寝にいかねばならないのである。

 この日は10時を過ぎたがラジオは鳴らない。修三はなんとしても今晩中にラジオを鳴らしてみたかった。

あきらめかけた時、突然ラジオが鳴り出した。どこをどうさわったのかわからない。バリコンを回して、再生を調整していくと見事に、ラジオ放送が聞こえたのである。

 父親は、「おう、鳴ったか」とうれしそうにのぞきに来た。修三は少し興奮して、「うん、鳴ったで」と得意げにバリコンを回して見せた。数局の放送が聞こえた。

 その夜は、寝床に入ったあとも興奮してなかなか寝付けなかった。なぜ鳴らなかったのか、なぜ突然鳴ったのかは修三にはわからなかった。

 ただ、ラジオを裏返して点検して、あきらめかけてラジオを上向きに置き直した瞬間になり出したのであった。

 翌日、修三は学校に行くのが楽しみだった。なぜなら山上や吉崎に自慢できるからであった。案の定、その日は修三の並三ラジオが話題の中心になったのであった。

 修三は、ついにラジオを完成させた。

 中学三年になった。ラジオ仲間は高校入試に向けて勉強がいそがしくなるから、お互いにラジオ作りをやめておこうと申し合わせた。

 とは言えやはりラジオ作りには興味があったから、中三の夏休みには、自作した並三ラジオを元にして、製流管に12F、高周波に6ZDH3Aを使った2球ベッドラジオを設計し、ラジオの製作に投稿した。

 中学三年生の2月、登校するとクラス男子が集まっていてなにやら騒々しい。修三が教室に入ると、「おお、湯川や。おまえのん出てるわ」と言う者がいる。

 よく聞いて見ると、ラジオの製作に修三の投稿したラジオがのったというのであった。

 修三は、家に帰るなり母親にわけを話して、ラジオの製作を買いに行った。

 読者の投稿欄に確かに修三のラジオがのっていた。うれしかった。

 その日、修三の家では、この話で持ちきりであった。

 

湯川修三の青春無線日記11

  「五球スーパー再び」    

 その子は湯川修三といった。高校1年生である。

 1966年のことである。

 高校に入学すると、ラジオ仲間は一斉にラジオ工作に突入した。このとき、ラジオ仲間は山上、吉崎のほかに大川、橋本がメンバーに加わった。この時、ほとんどはアマチュア無線クラブに入った。ラジオ仲間はいつしか、アマチュア無線家になることを夢見る高校生になっていたのであった。

 ある日の放課後、無線クラブの先輩JA3IYMが、真空管10球ほどの50メガサイクルのトランシーバーを学校に持ってきて見せてくれた。聞けば自分で作ったのだという。修三は、驚いた。なにしろ、修三は1年前にやっと並三ラジオを作った程度である。

 それは見事に組み立てられていた。そして驚いた、高校生でこんなものが作れるのか。

 修三にとって50メガサイクルというのは、一度も聞いたことがない周波数であった。それだけ、不思議というかあこがれのようなものを持っていた。そのトランシーバーなのだから、他のラジオ仲間も少なからずショックを受けていたのであった。

 無線クラブのシャックは校舎の4階ににあった。リグはTX88A9R59VFO-1であった。先輩が交信するのを見ていると、おもしろくて楽しくて不思議であった。21メガサイクルでの千葉県との交信を見聞きすると、窓の外のあの遠い山並みの向こうまで電波が青空に吸い込まれて飛んでいるんだろうと修三は想像した。

 家に帰ると、修三はまず五球スーパーを作ろうと考えた。以前失敗しているから、部品は全部そろっている。

 もう一度ていねいに部品をとりつけ、ていねいに配線をしていった。

 配線が全部終わったとき、修三はこのラジオは鳴ると確信した。配線しながらも間違いはないと確信していたので、すぐにスイッチを入れた。

 案の定、スピーカーからサーッという音が出た。バリコンを回すと放送を受信した。

 あとは本を見ながら低い周波数と高い周波数で、コイルやコンデンサーの調整をした。

 針金アンテナをつなぐと、数局の放送をきれいに受信した。修三はうれしかったが、もう家族ではしゃぐほどでもなかった。なぜなら、先輩のあの真空管トランシーバーを見ているのでもっとすごいものを作らねばと思っていたからであった。

 その頃は、友人との会話はアマチュア無線一色でなにやら雑誌で知識を得るとお互いに皆の前でそれを披露するといった具合であった。

 そういう状態であるから、修三は五球スーパーをアマチュア無線にも使える短波受信機につくり替えようと考えた。

 修三はかなりラジオや回路の知識が豊富になっていたから、コイルを取り替えれば短波が受信できるということはわかった。

 さっそく、部品屋にコイルを買いにいった。トリオ製のコイルを買うと家に帰って取り替えた。ザーザーという音がして、ペキン放送などが聞こえた。ところが、アマチュア無線を聞くためにはバリコンの細かい操作が必要だった。

 そのころ山上も同じような受信機を作っていたので見にいくと、バリコンが2階建てになっていて上のバリコンはほとんどの羽が抜かれていた。

 「こうすると羽をぬいた方のバリコンがスプレッドバリコンになるんやで」と山上は教えてくれた。

 早速修三も、手持ちのバリコンの羽をペンチで抜いていった。3枚ほど残したところで「2階建て」に挑戦した。できてみると、それは不格好の極みであった。しかし、アマチュア無線の受信は非常に楽である。一局一局がきちんと受信できる。しっかりと聞いていくとどこの無線局がどういう機械を使っていてどういうアンテナを使っているかがよくわかった。聞けば聞くほど自分も仲間に入りたいという思いが強くなっていくのであった。

 この受信機には欠点があった。バリコンを回そうと手を近づけると周波数が微妙にずれていくのであった。それでも、修三にとっては世界一の受信機であつた。

 

湯川修三の青春無線日記12

  「送信機の自作」     

 その子は湯川修三といった。高校1年生である。

 1966年のことである。

  そのうち、送信機を作ってみようという話が出てきた。物知りが、6AR5200ボルトくらいなら、電波法にはひっかからないというので皆その気になって送信機作りをすることになった。

 修三は、廃品回収の店に行くとアメリカ軍放出の無線機の残骸を買ってきた。それに部品をとりつける穴を開けるのであるが、そのシャーシーは鉄製であった。手回しドリルでは困難を極めた。ドリルの歯がぼろぼろになるので途中でドリルの歯を買いにいかねばならなかった。

 手は真っ赤になり血さえにじんだ。指先が痛くてドリルが回せない。それでも歯を食いしばってなんとか穴を開けた。

 部品を取り付け配線をすませた。電波を出すのは6AR5という真空管で、音声変調は42という巨大な真空管でかっこの悪い送信機になった。

 周波数は水晶発振子を使って決めた。修三は7000キロサイクルの水晶しか持っていなかった。皆の話では7120キロサイクルあたりで電波を出してみようということだったので。これは困ったことになったと思った。

 修三は考えぬいた末、水晶の厚みで周波数が決まることに目をつけ、水晶を削ることにした。

 細かいペーパーを買ってくると、水晶発振子を分解し平らなところに水晶を取り出してペーパーで削り始めた。少し削っては送信機に取り付けて、試験電波を受信してみる。少しずつであったが、周波数は上がっている。

 根気よく水晶削りを繰り返していると目的の周波数になったようであった。水洗いをして元の通り取り付けた。水晶発振子を差し込むソケットはなかったから、銅線を取り付けたアルミ製の洗濯バサミで両端をはさんで電波を出してみた。

「山上、聞こえるか」とマイクでいってみたら、家の近くの橋本から「かすかにきこえてるわ」と応答があった。

 修三は、電波が飛んでいるということで大変うれしかった。送信機と受信機がそろってアマチュア無線の準備はできたのだが、この送信機がアマチュア無線で使えるとはとても思えなかった。なにせ、水晶発振子を洗濯バサミでとりつけているのであるから。

 それでも五球スーパーを改造した受信機は、実用には十分耐えられるものであった。

 修三は、その受信機で毎晩アマチュア無線を聞いて楽しんでいた。高校の無線部の先輩であるJA3JGBJA3JBLがよく聞こえた。

 JA3JGB局は小高い山の上に設置した21メガサイクル用の2エレメントキュビカルクワッドアンテナで、JA3JBL局は家の屋根を被うような21メガサイクル用フルサイズ4エレメント八木アンテナに2B94という出で立ちでDXをかせいでいた。

 修三にとっては、ただただあこがれであった。

 一方JA3HVZ局はトランジスタの送信機で7メガサイクルで奮闘していた。とにかく、無線の交信を聞くのは、時間を忘れるほど楽しく、早く仲間に入りたいと思い続ける日々が続いたのであった。

 

湯川修三の青春無線日記

  「いよいよ開局へ」    

 その子は湯川修三といった。高校1年生である。

 1966年のことである。

 10月にアマチュア無線の国家試験がある。仲間は、みんなでそのときに電話級を受験しようということになった。

 修三は、教科書のようなものを買ってきて勉強し始めた。抵抗とコンデンサーの計算はなんとなくわかったが、インダクタンスやインピーダンスというのがさっぱりわからなかった。修三は、だいたい勉強はあまり好きな方ではないが、この国家試験で自分だけが不合格になるわけにはいかない。

 試験会場はある私立高校であった。受験者はほとんどが高校生である。仲間は、試験を受ける教室がみなバラバラであった。だから、試験前にはろうかに集まっていろいろと話した。

吉崎が「ニイパイルートエルシーブンノイチさえ覚えといたらええんやで」という。

「え、それなに」と修三はあわてた。

「教科書のここに出てるわ」と吉崎は教えてくれた。そこは修三が全く勉強していないところであった。

 いよいよ、試験が始まった。解きすすめていくと、本当に『ニイパイルートエルシーブンノイチ』が出たので、修三は驚いた。

 結果は、仲間は全員合格であった。

 修三は、合格を機会に当時最新型の9R59Dという受信機を買った。キットであるから自分で組み立てなければなにない。シャーシーを出して部品を出すと、新しい部品特有のにおいがする。修三はうれしかった。こつこつと組み立てた。すぐに完成して、アンテナをつなぐとみごとに受信をした。やはり自作の五球スーパーとはくらべものにならないのであった。

 その年の125日に無線従事者免許がきた。これで高校のクラブ局から電波を出せる。

 さっそく昼休みに4階の部室に行き修三がマイクを持ち「CQCQ こちらはジュリエットアルファスリーヤンキーイタリイキロ」と電波を出してみた。突然、宮崎県の局から応答があった。修三は胸が高鳴った。興奮して大声で交信を終えた。その興奮は5時間目の授業中も続き、授業などは上の空であった。あれほど、無線交信の仲間に入りたいと恋い焦がれてきたことが今現実になったのである。この時の感激と興奮が、修三の一生に影響を与えようとはこのときは夢想だにしていなかった。

 修三は、従事者免許がきたころ、TX88Dという送信機を買った。これは最新式の送信機で、送信の電力管に超高性能な真空管が使われていた。これもキットであったからこつこつと組み立てた。

 修三はこの送信機と受信機で局の申請をした。

 翌年の2月ころから、仲間に続々とコールサインがきた。一番早かったのはJA3LVE局であった。この局は9R59TX88Aという機械で開局した。続いて山上にはJA3MAVがきた。加藤にはJA3MWC、高橋にはJA3MYMがきた。

 修三は3月末に家を引っ越した。新しい家は団地の最上階の4階であった。引っ越すと、すぐに屋上の給水塔から屋上の端っこにテレビのフィーダ線を使って、7メガサイクル用のダブレットアンテナをはった。受信してみると、今までとはくらべものにならないほど多くの局が受信できた。無線設備は整ったが、一向にコールサインを書いたハガキはやってこない。修三は一日千秋の思いで待っていた。

 1967415日、ついにその時はやってきた。この日も学校から帰ると階段脇の郵便受けを開けてみた。白いハガキが無造作に入れられている。修三はあっと思いそのハガキを手にとった。コールサインという文字の横に手書きで『JA3NCD』と書かれていた。

『ジェイエースリーエヌシーディー』と口の中でつぶやいてみる。自分の部屋に入ると、

『ジュリエットアルファスリーノーベンバーチャーリーデルタ』とおまじないのように何度もつぶやいてみた。

 さっそく、このコールサインで電波を出してみる。JA3LVE局やJA3MAV局と交信できた。修三はうれしかった。2台並んだ無線機が魔法の玉手箱のように見えたのであった。