生活あるある
昭和30年代
京都伏見深草
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1.男の子はみんな前髪を横一直線にそろえていた

あのころの男子は全員前髪を一直線にそろえる散髪をしていた。散髪やにいってもそれ以外の選択はないので、私の知る限りほとんどの男子が前髪一直線であった。
いじめっ子であってもこの髪型だった。
2.お正月はおろしたての服を着た
お正月はおろしたての服を着た。暮れになると新しいジャンパーを買ってもらった。元旦になって初詣や友だちと遊ぶときには、真新しいジャンパーを着た。
これはこれでうれしかったが、他の友だちも同じものを着ていることがあった。
3.夏休みは40日間毎朝ラジオ体操があった
夏休みは40日間、毎日ラジオ体操があった。子供会の家の裏手でおばちゃんが出してくれたラジオを聞きながら体操をした。カードをクビからつって、はんこをおしてもらった。
体操が終わったあとひとしきり遊ぶから家に帰るのが遅くてよく怒られた。
4.火の用心の夜回りがあった
うちの町内は週に何回か火の用心の夜回りをこどもだけでする。
「マッチ一本火事のもと」「サンマ焼いても家焼くな」「1件焼いても国の損」などの文句をみんなで繰り返していた。
5.水晶とりが流行った
水晶のよく取れるところを水晶の「すいば」と言った。稲荷山で取れたらしい。私たちも、稲荷山にいく口実として、水晶をとりにいくのを使っていた。私はとったことがない
6.女の子のゴム跳びはすごいジャンプだった
女の子はゴム跳びが好きだった。飛ぶ前には「おーみそ」と言ってから飛ばなくてはならない。子どもの頭の高さのゴムを足で引っかけるのであるからジャンプ力はすごいものだった。
7.野球をしてもほとんどの者は素手だった
男の子は野球をよくしたが、まともなグローブを持ってる者などいなかった。ほとんどが素手。あってもビニルらしきものでこしらえたおもちゃのようなグローブだった。
8.紅白は近所のテレビのある家に集まってみんなで見た
テレビは高かった。テレビのある家なんて珍しい。だから、大晦日になるとテレビのある家に行って、紅白歌合戦をよく見たものだ。みなでわいわいいいながら見るので、今よりテレビは100倍も楽しかったと思う。
9.初詣は伏見稲荷と決まっていた
私の家は初詣は稲荷大社と決まっていた。歩いて15分くらいでつく。家族みんなで行くからうきうきした。おやまを一周したこともあった。
10.縁日で地球ゴマは必ず売っていた
地球ゴマは縁日の定番だった。おもしろく遊べるのだがすぐにあきる。壊れるのも早いから、結局2年に一回くらいは買っていた。地球ゴマを手の中で回した時の感触は今でも忘れない。
11.新京極のスター食堂は最高のぜいたくだった
新京極にあったスター食堂で食事をすることは、最高のあこがれであり、最大のぜいたくであった。近所の子に、スター食堂に行ってきたというと、いきなり尊敬の眼差しにかわるほど。それほどステイタスシンボルであった。
12.子どもが多かったので遊び相手には困らなかった
わが町内は、小学校区のなかではダントツで子どもが多かった。だから遊び相手に不自由はしなかった。外遊びに飽きて家に帰ると、家遊びの好きな子どもがいて、ゲーム、将棋、すごろくなどをして遊んだ。
13.肥後の守でしょっちゅう指を切った
このナイフは切れそうであまり切れない。笹を切って、杉でっぽうをよく作ったものである。そのとき、この肥後の守が活躍する。うまくやれば、笹を一刀のもとに斜めに切り落とすことができたが、失敗すると指をかなり深く切ってしまう。
14.夏休みに皆集まってテレビで月光仮面を見た
小学校3年の夏休み、町内で小学校からテレビを借りてくれた。夜の7時20分頃になると椅子をもって町内の廊下に集まって、月光仮面を見た。
15.紙芝居は何も買わないのでいつも一番後ろだった
紙芝居はよくきた。あれはなかなか始まらないもので、おじさんはこどもたちにちょっとした菓子を売る。えびせんやみずあめなどである。私は、一度も買ったことがないから、いつも一番後ろで見ていた。
16.渡辺のジュースの素ではじめてパイン味というものを知った
渡辺のジュースの素は、一袋5円だった。けっこう高い。1円でアメがひとつ、安物なら2つ買えた。そういうときの5円だから高い。それまで私はジュースというものを飲んだことがなかった。このジュースのもとで、パイン味というものを生まれてはじめて知った。
 その後、粉末コーラや粉末クリームソーダなんていうものも出た。本物のコーラよりおいしかった。しかし、発がん性のチクロが使用されていたということで発売禁止になってしまった。
17.フラフープはあっという間にすたれた
フラフープが大流行した。小学3年生のある日曜日の朝、長屋前の広場では子どもが大勢でて、みなフラフープをやっている。私もおしりがむずむずして、すぐにフラフープをもって広場に行った。確か、朝食前だった。
私の記憶では皆がフラフープをしていたのはこの一回だけで、次の日曜日にはフラフープは一気に下火になり、誰もしなくなった。
18.「星はなんでも知っている」と歌ったら母親から怒られた
当時はなぜかわからなかったが、歌詞をよくみるとかなりませた内容である。怒られた意味が最近わかった。
19. 4年のとき、何人かの男子は「アンポハンタイ」と言って廊下を走り回っていた
私は、アンポハンタイという言葉はラジオのニュースで聞いたことがあったが、デモのように走り回るというのは、その家庭はテレビがあったということである。
20.野球選手は長島以外知らなかった
少年雑誌は、長島一色だった。野球と言えば長島選手以外は誰も知らなかった。
21.ラジオの故障はたいていは、たたいたら直った
当時は真空管の五球スーパーだった。接触不良で音が出ないことがよくあった。そういう時はラジオの横っ腹をたたいたら直った。
22.この世の最高のごちそうはトンカツだと思っていた
大人になるまで、トンカツは食べたことがなかったが、最高のごちそうだと信じて疑わなかった。
23.かくれんぼで鬼が相手を見つけたら、「ぼうけん」といわねばならなかった。
かくれんぼでもかんけりでも、見つけたら最初に鬼がいたところを「ぼうけん」といいながらたたく。または「ぼうけん」といいながらカンを踏むことになっていた。なぜ「ぼうけん」なのか不明である。
24.風呂敷は遊びの重要なアイテムだった
風呂敷は、マントのようにするとそれだけですごく変身したような気がした。時には、ヒーローのように強くなったり、どくろ仮面のように悪役になれたりした。
もう一つの使い方は覆面である。鞍馬天狗のように目だけ出すやり方もあった。これはめちゃくちゃかっこよくなったような気がしたものであった。
25.駄菓子やの「あてもの」は不衛生だった
駄菓子やは訳のわからない安物の菓子やおもちゃ、そしてあてものがあった。あてものは当たればいい商品がもらえるが、はずれたらアメ一個というものだった。あてものの中には、紙をちぎってぺろっとなめると「ハズレ」「アタリ」の文字が浮き出てくるというものもあった。
 今思えば実に不衛生だが、当時はなんとも思わなかった。
:26.月光仮面の正体が祝十郎であることはみんな知っていた
月光仮面の正体が誰かわからないというのがストーリーであったが、子どもは正体を知っていた。
27.カラーテレビとは、白黒テレビに三色のフィルターをかぶせたものだった
当時のカラーテレビとは、赤青黄の三色フィルターを画面の前に置いたものだった。確かに色がついて見える。私はそれがカラーテレビだと思っていた。
28.テレビは左右にスピーカーのあるものが高級品だった
テレビは高いものだったが、画面の左右にスピーカーのついているものは高級品だった。おまけに足が4本ついていた。
29.鉛筆は1本5円だった
鉛筆は、三菱のものが1本10円で、コーリン鉛筆やトンボ鉛筆が1本5円だった。しかし、鉛筆を最後まで使い切ったことはなかった。
30.七輪は現役の調理器具だった
当時はガスも七輪も現役で使われていた。今のように趣味で魚を焼くのではなく、実働していた。だから、からけしや火消し壺も見たことがあった。
31.野球盤は多数のメーカーが出していた
有名なのはエポック社だが、任天堂&河田商店の「ディズニー野球盤」、バンダイの「ビーシー野球盤、富士野球盤などがあった。エポック社の野球盤は2000円だった。
32.ソノシートはペラペラだがちゃんと音が出た
雑誌にもソノシートがついていた。ペラペラのビニール製だが、ちゃんと音が出た。当時の安物の電蓄では黒いレコードとの音の差なんてわからなかった。なにかに応募するとCMソングのソノシートがもらえたりした。
33.まぼろし探偵は最高のヒーローだった
月光仮面よりはかっこよかったし、仮面をつければいいだけでなりきりもしやすかった。テーマソングは調子がよくて歌いやすかった。正体がおじさんではなく、少年であったことも身近に感じた要素だった。
34.鉄腕アトムと鉄人28号はどちらが強いのかで悩んだ
「少年」という雑誌にはどちらのマンガも掲載されていた。アトムと鉄人が戦ったらどちらが強いのか、子ども心に悩んでいた。
35.テレビはアメリカの番組全盛だった
私の家にテレビが来たのは昭和38年だった。テレビはアメリカの番組が全盛だった。「ウッドペッカー」「早撃ちマック」「ちびっこギャング」「マイティマウス」「コンバット」「冒険王クラッチ」「マイティハーキュリー」などなど。
アメリカのマンガはスピード感があっておもしろかったなあ。
36.ラジオの赤胴鈴之助は家族で聞いた
たしか、夕方の6時からだったと思う。家族でちゃぶ台を囲みながら聞いた思い出がある。しかし、ラジオが聞こえなくなるので家族の会話は御法度だった。
37.テープレコーダーは、家族みんなで遊べた
テープレコーダーを買ったのは昭和39年あたりだったと思う。家族でかわりばんこに歌を歌って録音してはみんなで聞いた。しかし、3日ほどは熱中したが、すぐに飽きた。
38.夏、男子はみなぞうりだった
ぞうりといってもビーチサンダルではない。形は長方形で表面にたたみのような模様が入っている。鼻緒はぞうりと一体成形されている。男子は家に帰ると皆このぞうりだった。その後、ああいうぞうりは見たことがない。
39.日曜の午後6時はゴールデンタイムだった
まず6時からは「てなもんや三度笠」があった。この番組は東西のタレントが出たり、若手の歌手が一曲歌ったりするちょっとしたバラエティコメディだった。6時半からは「シャボン玉ホリデー」があった。これは人気歌手やグループが出ていたし、クレージーキャッツのコントもしゃれていた。この二つをみると、お腹いっぱいの満足感が得られたものであった。
40.電話は交換手に相手番号を言えばつながった
昭和30年代前半は、交換手に番号を言うやり方だった。私は、父親が風邪をひいたら、近所の酒屋にいって、毎回この方法で電話をかけた。ダイヤルを回すようになったのは30年代の後半だったように思う。
41.チャンバラゴッコは必ずどちらかが泣いて終わった
棒を持ったらチャンバラごっこをよくした。息を合わせて打ち合っているうちはいいが、どちらかが必殺技を繰り出すと、どちらかが泣き出すことになる。
42.どんなバッタも一瞬で手づかみできた
バッタが葉にとまっていたら、横からさっと払うようにしてつかむ。これを高速でやるとほぼ百発百中でつかまえることができた。でも、くちから赤い液体をはくので気持ち悪かったなあ。
43.チキンラーメンは革命的だった
チキンラーメンは革命的だった。それまで、ラーメンは食べたことがなかったし、その存在すら知らなかった。それからいろいろな即席ラーメンが出た。どれもおいしかった。中学時代は夜食に即席ラーメンを食べていた。
44.貸本屋はマンガのパラダイスだった
昭和30年代は貸本屋があちこちにあった。貸本屋のマンガというのは、月刊誌のマンガとは別で、どちらかというと劇画調のものが多かった。つまり貸本用のマンガであった。一日借りて5円か10円だったと思う。
45.銭湯では女湯から「○○もう出るよ」という声がよく聞こえた
声の主は、誰かの母親かお姉さんかであろう。一緒に出ないと帰れないから隣の男湯に声をかけるのである。中には、となりに石けんを放り投げる人もあった。
46.少女漫画の定番は、お母様を探す少女と、名乗り出られず遠くで見守る母親の物語だった
少女漫画雑誌は私はよく読んだ。リボンの騎士は男子でも読めたが、上のようなマンガは少ししんどかった。それでも、少女とお母様はいつになったら会えるのかとはらはらしたものだった。
47.少女漫画のコマは、必ずバラの花で縁取られていた
少女漫画は、ひとコマひとコマの縁に、バラなどの花で縁取られていた。これは、男子のマンガにない特徴だった。特に主人公の少女が泣くところなんか、少女より花の面積の方が大きいくらいだった。
48.家にはバリカンがあった
私は六年間、親父に散髪してもらった。だから、手でカチャカチャと動かすバリカンがあった。油をさしたりして手入れをしていたのだが、だんだん切れなくなり髪の毛を引き抜くときもあり、とても痛かった。虎刈りは気にならなかったが痛いのは嫌だった。
49.お米の通帳があった
私が低学年のころには米は配給制だった。だから、お米の通帳が我が家にもあった。一度だけ見たことがある。母親が、米屋にその通帳を持っていき、米を買っていた。
50.アメは一個一円だった
駄菓子屋に行くと必ずアメがあった。一個一円だった。イモアメという白いものは歯ににちゃにちゃくっついたが一円で二個買えた。小遣い10円でアメを買うと食べきれないくらい買えたものである。
51.キャラメルは菓子の王様だった
ミルクキャラメルは10円で8個入っていた。グリコはこれに小さなおまけがついていた。クリームキャラメル、コーヒーキャラメル、サイコロキャラメルなどがあった。
キャラメルは、長持ちする菓子であり、菓子の王様だった。
52.ラジオの深夜放送はエロティックだった
昭和39年ころのラジオの深夜放送はなんとなくエロティックなにおいがした。アナウンサーはささやき声にかわるし、そういう番組をしていた。ラジオ京都では深夜12時から「深夜の本棚」というのをやっていて、中国の説話の朗読をした。この話がエロティックで中学生の私にはかなり刺激的だった。
昭和40年代に入ると、深夜放送も明るく元気なものになっていった。
53.医者の息子の誕生会に呼ばれてはじめてチーズというものを食べた
小学3年の時に、クラスに医者の息子が居た。そこの誕生会に呼ばれたときに、得たいのしれない食べ物を食べた。それがチーズだった。