トップに戻る

私の「冬のソナタ論」2005年頃記す


今年の3月頃から冬のソナタの存在は知っていた。内容はテレビ・ラジオの評論で内容も少しは知っていた。本屋の店先で、ペヨンジュン

の顔を見たとき、名状しがたい思いにとらわれた。それは私が今まで全く会ったこともない笑顔であった。懐かしい人に会ったような気がす

るする笑顔だった。

それからも気にはなっていたが、そんなに意識するほどではなかった。6月のある日スーパーで、主題歌が流れた。なんという情念に満ち

た歌だろう、が第一印象であった。

たぶんこれが、冬のソナタであろうと検討をつけて、すぐCDを買った。帰って聞いたら当たっていた。歌謡曲とは違

う、ポップスとも違う、そこには、これを歌わずにはおれないという、劇的な信条の吐露というものが感じられた。これこそ、「ロック魂」である。いい芸術は、自分の命と引き替えてもいいからこの表現をしたいというものが出る。冬のソナタの主題歌にはそれがあった。

裏を返せば、日本の歌がだめだということである。命と引き替えにこの歌を歌うというのは、この何十年と感じたことはなかった。

8月にDVDを買った。


冬のソナタがヒットした理由


1.だれにもある幼い恋をテーマにしている

これは見ている人にとって必ず大なり小なり経験がある。そして、主人公たちは、夢のような子供の恋からやがて大人になって、恋がさまざ

まな現実とぶつかる、そして最後には成就する。私たちが、子供時代から大人になって、いつしか、幼い日への憧憬として、振り返る。そう

いう名状しがたい懐かしさを思い起こさせる。こういう点がヒットした第一である。

2.家庭・家族が崩壊していない

かつての日本はこうであった。家庭、そして厳然として親がいて子供の上に君臨していた。それは、子供が大人になっても、従うべきものが

あるということであり、社会の秩序ともなっていたということである。このドラマでは、そういうところが描かれており、年配の者にはある種の

共感を覚えさせる。

だいたい我が国はどうか。子供の判断を阻害するものはすべて人権という名のもとに悪とされてしまいがちである。その結果、子供に強制

することが激減し、文化や判断力の継承が行われにくくなった。子供は、逆に孤独となり、独りよがりな判断をするものが多くなってきた。

同時に若い親も、子供に制約を加えることについてためらいがあり、そのことが家庭の教育力の低下を招くこととなったと考えられる。そし

て、外界にたいしても、いつしか子供に一切の理不尽があってはならないとのドグマに陥ったと考えられる。

でも、冬のソナタがヒットしたことで、多くの人はそこに描かれているような家庭・家族を是としているように思える。親は、子供に時には強制することがあってもいい、親を大切にしろ、判断をするときには親と相談をしろ、というようなことに共感しているように思える。


3.閉ざされた世界の中の物語で安心できる

物語は現実の厳しい世界との接触がない、きわめて限られた人間関係の中の物語である。物語といえども、あまりにも激しく展開しすぎる

と見ている者に緊張感を与える。しかし、冬のソナタは登場人物も限られているし、外界との接触もほとんどない私小説である。それは今

の私から見ると楽しい童話である。見る人の多くは童話を楽しんでいるように思える。冬ソナにはまれない人の多くは、現実にはあり得ないという覚めた目で見るからではないかと思う。童話と割り切る、ここが大切である。


トップに戻る