極めて貴重な写真でつづる

私のアマチュア無線史

 

「・・・・・、しかし、JA3NCDというコールサインと、青春を鮮烈にかけぬけた思い出だけは未だ健在である。」

 

黎明期(昭和39年から40年)

私が中学2年の時、ラジオ作りをしている友人がクラスにいた。ある日のこと、友人2人とそこの家にラジオを見にいった。そこで、私が見たものは、むきだしの部品や真空管、スピーカー。無骨な機械のかたまりが、たおやかなラジオ放送を奏でていた、不思議な物体だった。

 

 それは、おおよそ、上のようなラジオであった。(1964年、ラジオの製作10月号より)

私は、いっぺんにのめりこんでしまった。それから、部品集めが始まった。

  電気部品は、京都の寺町にいくと買えたが、高かった。とても中学生の私に買えるものではなかった。しかたがないので、廃品回収業の店によく通った。5級スーパーのラジオの捨てられたようなのが、100円で買えた。それを家に持って帰って、ニッパーとドライバーで部品をとっていくのである。同じ学年に電気屋の息子がいたので、そいつをそそのかしてテレビの古いのを提供させて、真空管をとりまくった。

  ST管

 ミニチュア管

いよいよラジオを作り始めたが、何も知らないのにいきなり5球スーパーを作った。当然、鳴らない。配線もぐちゃぐちゃ。点検する能力もないし、鳴らないまま終わった。

 次は、12BH7Aという真空管で3球ラジオに挑戦した。これは、基本からじっくりと組み上げたが、やはり鳴らない。夜遅く色々さわっていたら突然鳴った。あの感激は、生涯忘れることはできない。両親も飛んできて「ほーっ、鳴ったか」と親父。うれしかった。

 中三のとき雑誌にのった私のラジオ。(1965年、ラジオの製作3月号より)

その後は、ワイアレスマイクを何度か製作したりした。中3になると、友人との話題はアマチュア無線のほうへうつっていった。

 

電波を出す(昭和41年、高一)

高校に入ると、アマチュア無線の送信機と5球スーパー受信機を古い部品を集めまくって自作した。

 おおよそ、このような送信機を自作した。(1985年、別冊CQ誌より)

送信機の終段管はUY-807。800ボルトかけると、ゆうに50ワットくらいの出力がでるものであったが、私は400ボルトかけて10ワットの出力を得ていた。

 当時使用していた水晶発信子。(FT-243)今、これを知る人はほとんどない。

高校1年の暮れに、トリオ製の送信機と受信機を買ってもらった。両方で4万円ほど。やすい給料の中から、親父、お袋ありがとう。

TX88Dという送信機と 9R59Dという受信機である。キットで購入して、自分で半田付けをして組み立てた。このころ、免許を取得し、晴れて電波が出せるようになった。

  TX-88D。トリオ製の送信機(1985年、別冊CQ誌より)

私は、この送信機の400ボルトに感電し、一日寝込んだことがあった

 9R-59D。トリオ製の受信機(1985年、別冊CQ誌より)

 

はじめてのQSO(交信)(昭和41年、高一)

京都日吉ヶ丘高校のアマチュア無線クラブ(JA3YIK)で、ある日の昼休み、「CQCQ」とやってみたら、九州宮崎の局から応答があり、うれしくて興奮して交信をした。終えた時は、まるで自分が宮崎へ行ったかのような気持ちになって大変うれしかった。あの感激があったからこそ、48歳まで無線を続けたのだと思う。

 高校では、3年間無線部の部長を務め、文化祭では、夜の11時ころまでかかって展示の準備をした。人生でもっとも楽しいときであったかも知れない。体育祭の時も、仲間と無線の部屋で交信を楽しんでいた。

 

7メガ、21メガ帯へ(黄金時代)(昭和42年ころ)

アンテナは、団地の屋上にはったテレビフィーダを利用した7メガ用ダイポール。長さ20メートル。地上高20メートルくらいあるから、実によくとんだ。毎晩、中央アジアの局が入感し、同じ局と何回も交信した。当時は、21メガでは結構「主」みたいな感じであった。しかし、自作のアンテナチューナーを通していた程度であったから、ご近所にTVIが出まくりであった。
家でも、毎晩電波を出し、多くの局と交信した。電信は、電波がよく飛ぶのであるが、毎晩夜中の11時過ぎに、ソ連のバルナウルの局(UA9YFG)と電信で何度も交信したのが印象的であった。ソ連のシベリアのコールサインは、UA9であるが、UAとはかなりの局と交信した。UAの特徴は、電信の速度が非常に速く、ノートに書き取るのに大変苦労した。また、電信は回路のどこかを切ってキーで接続するわけであるが、どうもB電源あたりを切っているようで、キーをたたくたびに微妙に周波数が変化する。だから、ぴーぴーという音ではなく、ピヨーピヨーというような音になる。UAの局独特の回路に原因があると思われる。


あと、オーストラリア VKともよく交信した。私の持っている貴重なQSLカードは、返還前の沖縄の「KR8EI」である。1967年の9月2日に交信している。

貴重なQSLカード(交信証)。右上がイタリア。左上がアメリカ領沖縄

あと海外で交信したのは、アメリカ、イギリス、スイス、イタリア、アルゼンチン、韓国、ハワイ、シンガポールである。10ワットの非力な出力と単一型のワイアーアンテナでよく健闘したほうだと思う。よく出ていたバンドは7メガサイクルと21メガサイクル帯であった。

近所の多くの局と交信し、友人もたくさんできた。

 

VHF帯へ(昭和45年、大学1年)

大学に行ったあたりで引っ越しをした。小さなアンテナですむVHF帯へ移行した。50メガヘルツと7メガヘルツのバンドによく出没した。50メガでは、滋賀県の局とよく交信した。けっこうローカルな局と交信できて楽しかった。使っていた機械は、井上電気のFDAM-3であった。

 FD-AM3(1985年、別冊CQ誌より)

その後、この機械を友人に売って、同じ50メガのトランシーバー、RJX-601を買った。大学時代の運用はこの機械が中心となった、

 松下電器のRJX-601

 

TS520X購入(昭和49年、就職1年目)

TS-520X

 TS520Xの終段管、S2001。当時最高級の出力管

就職一年目の12月、ボーナスで以前からほしかった、最新型のアマチュア無線トランシーバーTS520Xを購入した。当時10万円であった。家の屋根に上がって巨大なオールバンドの垂直アンテナをたてた。夢中になって、電波をだしまくったが、教員試験が受かり、枚方で下宿生活を送ることになり、いったん運用を中止した。

 

交野三中へ赴任

新任として、交野三中へ赴任した。ここは、新設校で、私はアマチュア無線クラブを作りたいと申し出た。無線機がないので、私のTS520Xを学校に貸すことにした。

 

枚方四中へ転勤・自宅で運用を再開

結婚を機に、枚方四中へ転勤。学校では無線クラブの顧問をし、家では、144メガヘルツの無線機を14万円で購入し、文化住宅の裏にアンテナをたてて、運用をはじめた。

そのご、144メガのみならず、TS520Xでの、7メガ、21メガ帯での運用を再開した。しかし、すべての設備が黄金時代に戻ったころ、私はすでにアマチュア無線に興味を失っていた。

その後、15年ほどは年に何回か電波を出す程度であったが、ついに今から3年前の平成12年、すべての無線機を廃品回収に出して、処分した。

ここに私のアマチュア無線の歴史は事実上その幕を閉じた。

現在ある無線機。左は、144.435.1200メガの3バンドトランシーバー。

右はオールバンド受信機。