定年後9ヶ月の経過 23.12.16
定年前の心境
3月
いよいよ今月で退職である。しかし私には惜しむような気持ちはなくとにかく一刻も早くこの校長職から逃れたいと思っていた。でも、まだ卒業式をやらねばならない。気が重い。
終業式もある。人事のこともある。
退職した
4月
私は、市の定年退職者対象の非常勤職員採用試験に不合格であった。
退職者が15人で採用は5人であった。採用されたのは元市職員が2名と、小学校の元校長が3名であった。どうも聞くところによると、合格者ははじめから決まっていたらしい。
公募したというアリバイ作りのために、採用試験をしたようである。
不合格の理由として考えられるのは、
@小学校関係を補強したかったので中学の私はいらなかったこと、
A私は自民党政権下で校長になったのであり、旧社会党政権になったいまでは私の考え方が幹部とは違い、利用価値が落ちたこと、
B私は愛想が悪く上司に取り入るようなことは一切したなかったのでコネが作れなかったこと、
などが考えられる。
その後、なぜ10年も校長を務めた私がはずされたのか、と悶々と自問自答する日々が続いた。7月くらいまでは来る日も来る日もそのことばかり考えていた。
一方、体を鍛えなければならないと思っていたので、4月1日から現在までほぼ毎日40分から1時間くらいの散歩をしている。
また、昨年の10月に肺炎で入院したので、呼吸器をきたえなければと思い、スイミングに通い出した。だいたい週に3回、一週間で2000メートルほど泳いでいる。
4月末の勤務校の歓送迎会までには再就職先を決めて同僚たちに見栄をはろうと思っていたが、2社応募して2社ともだめであった。それほど就職したいという切迫した気持ちもなかった。
資格をとった
6月
再就職をしなければという思いで、危険物取扱者乙種4類の試験を受けた。この試験勉強は3月上旬から始めていたのである。物理や化学の高校の参考書を買ったりして勉強
し、いろいろと新鮮であった。
問題集もだいたい常に合格点がとれるようになっていた。
試験は私がかつて通っていた京都の元予備校で実施された。建物を見ても当時のことを思い出すには至らなかった。
試験は実に良くできた、法令などは14/15、物理は10/10、消火等は10/10という成績であった。
結果は合格。7月20日過ぎにはめでたく、免状を手にした。これで、ガソリンスタンドでは最上級の資格である。
6月15日、初めての共済年金が2ヶ月分振り込まれた。30万円であった。ここで少しホットとした。しかし光熱費込みで月15万円で生活するのは苦しい。爪に火をともすようなけち
けち生活が始まった。
8月
暑い日も散歩はしっかりした。腰に水をいれたペットボトルをぶら下げて約1時間は歩いた。このころから、ふくらはぎに筋肉がつきぼてっと太くなってきたのに気がついた。ウォー
キングの効果がだんだん現れたのである。うれしかった。同時に、足のモモにも肉がはっきりついて太くなってきた。家内は、60になっても進化していると喜んでくれた。
しかし不思議なことに、このころまで、また教育委員会に呼び出されて叱られるのではないかとひそかにおびえていた。退職しているのでそんなことはあり得ないのだが、トラウマ
というのか、そういう思いがなんとなくしていたのである。
ひょっとしたら、市教委から何か仕事の声でもかかるかなという根拠のない期待がよぎった。しかし、同時にもう働きたくないなという気持ちもしていた。
心境の変化
10月
昨年の10月5日に肺炎を発症したので、一年目を迎えるについて妙に緊張した。昨年と同じことが起きはせぬかと。
このころになって、ようやく、本当に仕事をやめたんだな、もうあれをしなければと思い詰める必要もないんだな、とやっと自由な気持ちになった。
仕事も探していたが、校長として部下には厳しいことをいってきたので、今度自分がどこかに就職したら、きちんとやらねばならないというプレッシャーが消えず、この年でもう一
度テンションをあげて就職するのがおっくうになっていた。
このころになって、月一回の木曜日に懐かしの京都市内を10キロほど歩くというのをやってみた。しやあ、楽しい。疲れるが疲れたら翌日寝てたらいいだけ。あれをしなければと
いう義務感はないので心が軽い。
このころには、ほぼ完全に吹っ切れた。退職して無職ほど楽しいものはないと。もう教育関係の仕事に恋々とする気もなくなったし、他のアルバイトをしようとも思わなくなった。
年金も月15万の他に、私的にかけていた年金が月いくらか入ってくる。総額手取り約20万円で、家のローンもないし何とか普通に暮らせるまでになった。
行きたいところにいけるし、読みたい本も読める。楽しいテレビゲームにもしっかりとがんばることもできる。ストレスもないし、あの骨まで食い尽くすような校長職の義務感もない。
部屋のカーテンをあける
この頃から日中は私の部屋のカーテンをあけるようにした。今までは日中は自分の部屋がなんとなく居心地が悪かったが、日中でも自分の部屋は自分の居場所だと思えるよう
になってきた。だから、窓のカーテンをあけるようにした。我が家は南向きなので冬の陽が差しこむ。
幸い、夫婦ともこれという持病がなくきている。つくづくこれ以上の幸せはないなと思うようになってきた。
散歩コース
散歩は現在4コースある。6月頃から4ヶ月間は、村の中コースを歩いた。田植えから刈り取りまでを毎日見た。村の人は全く知らない私に挨拶をしてくれた。村にはなぜか犬の糞
は落ちていなかった。
次のコースは、西向きに大通りを歩いて京阪奈公園、コーナン、アピタへと続く道である。朝は、じじばばが多数散歩している。夕方は子どもがたくさん遊んでいる。
次のコースは、木津川台を抜けて同志社国際学院をまわるコースである。ここは住宅にバラを咲かせているところが多数あり、それらを見て歩くとおもしろい。
次のコースは、近鉄を越えて木津川の土手のサイクリングロードへ続くみちである。
どのコースも味わいがあり楽しい。最近は、歩数計をポケットに入れて歩いている。これがなかなか励みになるのである。
☆平成23年12月の今思うこと☆
スイミング
4月ころは、一回あたり400メートルくらいしか泳げなかった。8月ころは一回600メートルくらいまでのばした。
現在は一回800メートル、週あたり2500メートルくらい泳いでいる。かなり早く泳げるようになってきたので、息継ぎはしやすくなった。
なぜか退屈はしない
無職で家にいて、もっと退屈するものかと思っていたが、現在全く退屈しない。やることもたくさんあるし散歩もいかなければならない。ゲームもできる。退屈はしない。
「ねばならない」という思考自体が職業病
8月頃までは、「過去を振り返ってはならない」と思っていた。しかし、最近、この「ねばならない」という思考自体が職業病であり、私の大きなストレスになっていたことに気がついた。
この頃は、振り返りたくなればとっぷりと振り返ればいい。進みたくなればぼつぼつ進む。眠たくなれば眠り、出かけたくなれば出かける。
風の向くまま、気の向くままに生きるのが本当の自由なんだなと気がついた。そうなると毎日が楽しくて仕方がないのである。
鳥の声が楽しいし、花に蜂がきているのをみると心がふわっとなる。バラを見ると夢の世界をさまようし、テレビゲームをすればわくわくとしてくる。
若いときのように詩を書いてみようかと思うし、童話を書きたいとも思う。四季の移り変わりをカメラで撮って楽しみたいとも思うし、妻を手伝って庭いじりをしようかと思う。
老後ほど楽しいときはない。こんなに思考や思いが自由気ままに巡らせられるのは学生時代以来である。
姿勢がよくなった
私は猫背である。今まで背を伸ばすことはあったが、「明日職場に行ったらこんな張り切った気持ちにはならないよな」という無力感で、やっぱり背はかがんで生活していた。
ところが、現在はストレスがなく他人を気にせず自分に正直に生きられるので、やっと背をピンと伸ばして歩けるようになった。
衝動買いをしなくなった
現職中は、仕事の緊張から逃れたいためにいろいろと買った。特に文房具はよく買った。新しい文房具を買うと、明日職場でそれを使うのが楽しみになる。つまりこうでもしないと
職場に行く気にならないのである。
ホッチキスは5個ほど買ったし、ボールペンも使い切れないほど買った。マグカップもよく買って「明日は職場である校長室でこのカップでお茶を飲もう」と思うと次の日に出勤する
のが少し楽しみになる。
こうして、次々と衝動買いを繰り返していたのである。校長時代の10年間は、精神的には極貧の日々で、実に実にみじめな日々でもあったのである。
ところが、現在はストレスが全くないので、衝動買いをしたいとは思わない。今になると、なぜあれほど衝動買いをしたのかわからないほどである。
これが我が道
もう働くのはこりごりだと思うようになってきた。もう、あれをやらねば、と思い詰めることに疲れた。義務を負うことに疲れた。
人間ドックで大阪市内まで行く機会があったが、非常に遠かった。疲れた。この距離を仕事をもって毎日義務感をもって通うのはもう考えられない。仕事はもうしたくない。そもそも
職業をもつことに疲れ果てたのだ。責任をもつことに疲れ果てたのである。
一方、スイミング8ヶ月で胸や腕に筋肉がついてきた。我ながらいい体になったと思っている。
老後の最も大切な仕事
年金生活とは「遊んでいて飯が食える」状態である。気楽でいい。
ただひとつ心がけておかなくてはならないことがある。それは健康作りである。中途半端にやっていてはだめで腹をくくって取り組もうと思うようになってきた。