ストレスにさいなまれ続けた10年間  23.12.19


校長職はストレスのかたまりであった。校長なんかとても引き受けるものではない。

保護者の苦情

まず、保護者からの苦情にびくびくしていなくてはならない。教頭が妙に長い電話を受けたら胸がドキドキする。たいていはあたる。

苦情の中には、いい苦情と悪い苦情がある。しかし、どちらも丁寧に対応しないと新聞に出てしまう。この恐怖といつもとなりあわせであった。

子どもの自己・けがこれは、大変である。親への報告が遅れるとそのことをあとでしつこくからまれる。子どもを病院へつれていって、診断してもらってから親に電話、では遅いの

である。病院へ連れて行く前に直ちに電話をしておく。これでけがの苦情の7割は防げるのである。

保護者の苦情はいつ来るかわからない。

教員の生徒指導のあり方

言葉がきたない教員がいる。体罰の常習教員もいる。そのたびに、夜遅くまで校長が対応しひたすら謝る。

毎日毎日、何かがおきやしないかとびくびくしていた。

バイク通勤

私は600ccのスクーターで、往復40キロを10年間通った。バイクが好きだったこともあり、55歳くらいまでは「今日も元気だ、バイクに乗れるぞ」と楽しみにしていた部分もあるが、

58歳くらいからは、「遠いなあ、バイクがつらいなあ」と思い始めるようになってきた。

特につらかったのは、57歳の時に大阪府東部の小学校に転勤になったとき。生駒の山越えにたった一本しかない幹線道路を片道20キロ走って毎日通った。

修学旅行の日は、朝の6時に京阪電車の駅に集合であった。学校から駅まで歩いて30分はかかる。朝の3時半に起きて、4時半前にはスクーターで家を出る。5時15分に学校に

ついて、そこから歩く。集合したら校長のあいさつが一番はじめにあるから着くのに必死である。

このとき、もしも朝スクーターが故障したらどうなるか。電車もバスも走っていない時間帯である。私が行かなければ修学旅行そのものが成立しないだろう。新聞にものるだろう。

そういうことを考えると一月ほどまえからもやもやどきどきしていたのである。修学旅行の引率は相当なプレッシャーであった。

スクーター通勤10年間で、一番気になったのが冬場の道路の凍結。スクーターにとって凍結は即死を意味する。だから天気予報には人一倍神経をとがらせ、ども程度の凍結な

のか、凍結するとすれば、路側帯だけなのか、道の真ん中までなのかなど、かなり綿密な情報を集めて出勤をした。

冬場は毎日天気予報に神経をとがらせていたが、ほとほとそのことにも疲れ果てたというのが今の感想である。

多すぎる「校長先生の挨拶」

中学より小学校は校長先生のあいさつが多い。送る会などは中学では生徒会担当教員が進めるが、小学校では校長先生のあいさつがまずある。研究授業の協議会でもまず校

長先生のあいさつがある。

地域の人がくるとまず校長があいさつをする。

小学校では、児童朝礼が毎週ある。これが大変である。毎週話を作っておかなくてはならない。6年にわかる話は1年にはわからない。小学校の2年間は苦行であった。

一体いつ帰れるのか

一体何時に帰ればいいのかがストレスである。5時に勤務時間が終わっても、学年会議などは6時半ころまでやっている。部活は夏なら6時までやっている。

生徒のけんかなどで保護者を呼ぶときは早くて6時半、中には夜の8時に来るという場合もある。

何もないときでも何時に帰れば、教員は納得するのかを、教員の動きなどを見ながら細かい駆け引きをしながら学校を退出しなければならなかった。毎日夜の8時まで学校にい

れば教員は喜ぶだろうが、こちらは早死にしてしまう。そんなに遅くまでは、私の体力では無理である。

何時に帰ればいいのか、は日常の最大のストレスであった。