![]() 正月 年始登城の図 JR長岡駅 地下道 |
![]() 河井継之助邸跡地 2001年9月 |
![]() 河井継之助邸跡地に建てられた 河井継之助記念館 |
![]() 記念館に展示されている ガトリング砲 |
![]() 継之助が銃撃を受けた 新町口付近 |
![]() 長福寺の柱に残る弾痕 |
![]() 継之助の従者、木川松蔵の墓 長岡市、願誓寺 |
![]() 西軍上陸の地 |
![]() 本陣が置かれた 摂田屋、光福寺 |
![]() 八丁沖古戦場 |
![]() 司馬遼太郎「峠」の碑 |
![]() 料亭「東忠」 地震で被害を受けたが数ヵ月後再開 |
![]() 小千谷会談の行われた 慈眼寺 |
![]() 震災被害を受けた 小千谷会談、会見の間 |
![]() 東忠全景 |
![]() 只見町、会津塩沢 河井継之助の墓 |
![]() JR只見線、会津塩沢駅 |
![]() 只見町、 河井継之助記念館 |
河井継之助は文政10年(1827年)1月1日、 長岡藩士河井代右衛門と貞の長男として長岡城下で生まれる。 幕末時、藩の建直しに奔走し、家老まで登りつめる。戊辰戦争では中立を守ろうとしたが、 小千谷、慈眼寺の会談では申し入れが聞き入れられず、開戦を決意する。 長岡軍は健闘するが、河井は負傷して会津若松へ運ばれる途中、 慶応4年(1868年)8月16日会津塩沢で亡くなる。 長岡城下は戦闘により灰となる。このため河井の評価は地元長岡では賛否両論という。 |