黒谷金戒光明寺は、会津藩が京都守護職に就いた際の本陣となりました。
松平容保は、文久2年(1862)12月上洛し、京都守護職として活動を開始する。 京都守護職は、幕政改革の一環として、京都の治安維持回復のため新設された。 当時の京都は勤皇を名乗り天誅に狂奔する志士達を京都所司代だけでは制しきれず、幕府は守護職を新設する。 会津藩は守護職就任を要請された当初は固辞する。藩内においても「火中の栗を拾うようなもの」として反対の声も多かった。 しかし松平春嶽らの必死の説得により、就任をよぎなくされる。 藩祖、保科正之の残した家訓に、徳川家に対する厚い忠誠心を守ることを第一とすると記されている。 注 保科正之は2代将軍、徳川秀忠の側室に出来た子供で、正室小督の方(淀君の妹)の嫉妬を恐れて生まれて間もなく信州高遠の 保科家へ養子として出される。後に3代将軍徳川家光を補佐し、徳川幕府を支えた。 この家訓を守り、藩士1000名を伴って文久2年12月4日、三条大橋を渡り本禅寺で旅装を麻上下の正装に着替え、 近衛関白邸を経由してこの寺院に入り本陣を構えた。 遠く離れた東北から来たこの藩を当時の京都の人々は「かいづ?何処にあるの だろう」という程度の認識で、本当に大丈夫なのか危惧する人も多かったという。 |