野遊
御所

幕末期、御所には様々な思いを持った大名や武士、公家達が行き交いました。
越後長岡藩の家老、河井継之助も慶応3年(1868)12月21日建白書提出の為参内しています。


御所 紫宸殿
春の特別公開


紫宸殿 扁額
  


御所 猿が辻
姉小路公知暗殺現場


御所 紫宸殿
春の特別公開


紫宸殿 扁額
  


御所 猿が辻
姉小路公知暗殺現場


御所 紫宸殿
春の特別公開


紫宸殿 扁額
  


御所 猿が辻
姉小路公知暗殺現場
京都御苑には9個所の門があります。幕末期にはこの門の守りを各藩が受け持っていました。
蛤門や堺町門では壮絶な戦いがありました。


今出川御門


石薬師門


清和門


寺町門


堺町御門


下立売門


蛤門


上立売門


乾門


地下鉄丸太町下車、一番出口から地上に出ると京都御苑の南西角に立つ。

御苑には丸太町通りに面して堺町門、烏丸通りに面して下立売門、蛤門、中立売門、乾門、

今出川通りに面して今出川門、寺町通りに面して石薬師門、清和門、寺町門の九門がある。

どの門もそれぞれ趣があり、京の町に溶け込み落ち着いた雰囲気を醸し出している。

この九門に囲まれた京都御苑の中に更に築地塀に囲まれた建物が禁裏と呼ばれる御所である。

御苑内は江戸時代まで多数の宮家や公家の邸宅が並んでいたそうだが、今は広々とした空間である。

この空間で幕末時に起こった様々な出来事を空想するのがたまらなく楽しい。

文久3年(1863年)5月20日深夜、姉小路公知が襲われた猿が辻は今も人通りは少ない。

写真を撮ろうとしてじっと立っているとパトカーが近寄ってくる。カメラを構えるとそのまま通り過ぎていった。

挙動不審に見られたのだろうか。御苑内は常に厳重に警戒がなされている。

この度は迎賓館でのサミット外務大臣会議の直前の所為かひときわ厳重な警備がされている。

文久3年( 1863年)7月3日、会津藩士約一千名によって天覧馬揃えが行われた建礼門前、

この馬揃えの成功によって会津藩が守護職として信頼を得ることになった。

会津藩の仮本陣があった凝華洞跡には松が植えられ碑が立っている。ここからは建礼門が見渡せる。

一.一八の変で長州による警護が解かれた堺町門はひときわ立派な門である。

元治元年(1864年)禁門の変で長州の軍勢と会津薩摩の連合軍の最大激戦地となった蛤門、

元は開かずの門だったが天明8年(1788)の大火の際に初めて開かれ、 火に焼かれて口を開く蛤に例えて蛤御門と呼ば

れるようになったというのは有名な話。

これらの出来事を証明するような物は蛤門の弾痕以外は何も残ってはいないが、

文献や物語などで読み知った事を想像すると、また一段と興味が湧いてくる。

御所内の見学は事前申し込みが必要であるが、毎年春と秋の特別一般公開では事前申し込みの必要が無く、

数年前鴨川にお花見に出かけた折偶然一般公開中で見学することが出来た。

清所御門を入り車寄せの前を通り過ぎると諸大夫の間、ここは正式参内控えの間である。

幕末期、容保をはじめ多くの武士や公家達がこの部屋で待機したのであろう。

私が関心を寄せている越後長岡藩の河井継之助が藩主牧野忠訓の名代として建白書提出のため参内したのは

慶応3年(1868)12月21日、この部屋で待機したと思われる。

継之助がこの空間に存在した事実は間違いないと思うと感動を覚える。

  回廊、紫宸殿、南庭、承明門、春興殿、清涼殿を経て小御所、学問所の前に出る。

小御所は将軍、諸大名の謁見の間とされている。ここであの小御所会議が行われ王政復古の大号令が出された。

慶応3年12月8日、新しい日本を模索する人達が行き交い、また岩倉具視と土佐の山内容堂の激しい議論がなされた

光景が幻のように想像される。

更に御常御殿などを通って出口へと向かう。約1時間のコースである。


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