毛利元就(もうりもとなり)
1497(明応6年)〜1571(元亀2年)
*享年75歳



*彼は安芸国高田郡の吉田の里(現在の広島県)の郡山城で生まれる。
幼名は松寿丸(しょうじゅまる)である。
彼が5歳で母を10歳で父を亡くすなど両親に早く死別し、継母との生活や井上氏の専横等で苦労して育った・・・。
永生13年(1516)彼が20歳の時、兄である興元(おきもと)が病没したので、2歳の遺児*幸松丸(こうまつまる)を補佐し、有田城(現在の千代田町)合戦や鏡山城(現在の東広島市)攻撃をして武功を立てた。
しかし、遺児興元の遺児*幸松丸も僅か9歳で夭逝(ようせい・・・若くして死ぬことの漢語的意義)したので27歳の時家中に推挙され毛利家の家督を継いだ。
この頃の毛利家は安芸吉田地方の地方領主(石高にして約三万石)にすぎず、安芸は大内家と尼子家の二大勢力にに挟まれておりその安芸もいくつものの勢力が乱立しており、一つ舵を誤ってしまえば滅亡する危険性がある状態であった・・。
よって元就は巧みに二大勢力である尼子家の従属国になったり大内家の従属国になると言った風見鶏外交を続けつつ生き残りをかけ、また国内では専横の目立つ重臣井上元兼一族一党30数人を粛清し家臣団支配の強化をはかり、外交面では得意の調略等をうまく使い次男*元春を吉川家へ三男*隆景を小早川家へ養子に出すと言った方法等で徐々に勢力を伸ばしついに安芸の覇者となるほどの勢力を持つようになった・・。
そんな中元就に最大の転機が訪れる。
天文20年(1551)元就が従属していた大名*大内義隆が家臣*陶隆房(後の晴賢)に謀反により殺されると言う事件が起こった。
初めは陶晴賢を支持する対応をとるものの後にこのごたごたしているどさくさに紛れて陶氏を倒し大内家を滅ぼし長門,周防を奪い去ることを決意!!
数年間の陶氏との謀略戦を経て1554年5月陶氏を討つ為郡山城を出発!!
そして1555年10月1日謀略戦で味方に付けた有力商人*堀立直正(ほたてなおまさ)や村上水軍の協力や天候も味方し厳島で陶隆房を討ち取りその後大内家を滅ぼし周防と長門を収めた。
その後尼子討伐へ出兵。長男*隆元が出雲来援の最中不慮の死を遂げると言う悲運に見舞われるが、これに屈することなく冷静にそして冷酷に城攻め等をし、吉川元春、小早川隆景の両川の協力を得て11歳の嫡孫の幸鶴丸(こうつるまる→後の輝元)を盛り立てて1556年ついに月山富田城を攻略し尼子家を滅ぼしついに中国地方を統一する・・。
元就は生涯節制を守り飲酒は慎んでいたその成果かどうかは分からないけど71歳にして第十一子をもうけた・・。
まさに典型的な大器晩成型の武将といえるであろう・・。

 
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