ウロボロス 第一話





・扉を押し開く。音を立てないようにゆっくりと。僕は聖堂に侵入した。扉が独りでに閉じた安堵して息をつき、それから薄暗い堂内を見渡した。
 堂内は窓から射し込む月の光で蒼褪めるてみえた。左右に木製のベンチがいくつも並んでいる。奥には祭壇があり、その上に苦悶の表情を浮かべた基督が十字架に架けられていた。ステンドグラスから射し込む光に照らされた十字架は輝き、その輝きは基督の悲哀と苦悩を際立てていた。
 聖堂内はは無音だった。沈黙が支配していた。聖堂に存在しているものは、神の威厳と僕のみだ。静謐に包まれた深夜の聖堂は、僕でさえもなんだか敬虔な気持ちにさせてしまう。僕は椅子に腰掛けると、改めて磔刑像を眺めた。
 基督よ。貴方は莫迦だ。人類の罪を赦す為に刑に処されたと云うけれど、その実、只の罪人でしょう。それにもし讀罪の為に死んだとしたら、莫迦の度をすぎて阿呆の極致だ。
 世界には、そこまでする価値はない。人類にもない。人々はあなたに罪を全てなすりつけ、のうのうと生き延びている。平和だ、博愛だ、平等だとほざきつつ、罪をなすりつけ、基督者だと自称している。だから沈黙するのですか。救われないのですか。
 「寺川君」

 呼びかけられて、振り向いた。灰明るい光の中、扉の近くにたつ人影が在る。

 「幹さん」

 幹さん。彼は僕よりも年長の十七歳なので、敬称をつけて、僕は名を呼ぶ。

 「どうして、僕がここにいるって分かったのですか」

 「杉形神父が教えてくださったんだよ。君が夜に聖堂に籠る、と」

 「気づかれてたのか」

 「ああ。だから杉形神父は聖堂に鍵を掛けないんでおくんんだよ」

 云いながら、僕の隣に腰を下ろした。
 幹さんの顔は中性的だ。どこか女性的な顔立ちは、温和な印象を与えていた。しかし眼だけが冷淡な印象を覚えた。

 「君がここに来てからどれくらい経った」

 「ちょうど一週間です」

 「ここの生活には慣れた」

 「なんとか」

 僕は一週間前、この修道院に身柄を引き取られた。母が十年程前に他界し、今から十日前父は再婚した。相手は勤めている会社の部下だったそうだ。まだ二十四歳と若く、父と十六の年齢差があった。だから父と女性は、僕を疎く感じたのだろう。基督者であり、多額の寄付金を払う父の頼みにより、僕はこの修道院に預けられることとなった。

 「君は瀬戸君と仲がよいみたいだね」

 「まあ。一応」

僕が曖昧に答えると、幹さんは小さく頷いた。

 「彼と仲良くなれたのは、君が初めてだ」

 この教会は養護施設も兼ねており、僕の他にも家庭に事情があって家に住めなくなった子供を預かったり、身寄りのない子供を引き取ったりしている。瀬戸はその内の一人で、僕と同年の少年だ。

 「どうしてですか」

 「瀬戸君は気に入らない人間には暴力を振るうからね。皆、彼を恐がるんだよ」

 いわれてみれば、そうだったかもしれない。

 僕と瀬戸が喋っていると。神父十修道士達が僕たちをからかいに来る。

 瀬戸。瀬戸君。どうしたんだぃ。よく喋るね。仲が好いね。私達や、皆にも何を話しているか聞かせてくれないかなァ。
 光のない黒目勝ちの瞳がぎらついた。瀬戸が醸しだす殺気じみた気配に、なぜか圧倒されて俯いた。握りしめた瀬戸の拳に、稲妻のような血管が浮かび上がるのが見えた。 

 「どうやって仲良くなった」

 「解りませんいつの間にかです」

 「そうか」

 「ねえ。幹さん。どうして瀬戸は、僕と仲が好いのかな」

 「それは君と瀬戸君には共通点があるからだ」

 「どんな」

 「二人して、異端者だからだよ」

 異端者。成程。

 「類は友を呼ぶというやつですね」

 我ながらありきたりな言葉をほざいてしまった。

 「異端者の意味が解ったのか」

 「解りますよ。それくらい」

 苛立ち、押し黙った。会話が途切れた。冷めた空気が堂内に満ちる。居心地の悪さを感じて遣る瀬なくなった。
 どうして僕はこうなのか。幹さんが嫌いではない。むしろ好意を持っているくらいだ。死んだ母と冷血な父が家族だった僕に幹さんは兄のように接してしてくれた。尤もそれは、この修道院の義務的行為なのかもしれないが。
 なぜ、外面だけでも合わせられないのか。
 泣きそうになった。

 「何を祈る」

 問い掛けられて我に返った。なに云っているんですか。云いかけて気がついた。両手を握りしめ、腰を屈めて泣きかけている姿は祈っているようにしか見えない。

 「祈ってなんかいませんよ」

 苦笑しながら云った。

 「そういえば先刻も祈っている様に見えたな」

 顔を上げる。磔刑像が眩く黄金に煌めていた。

 「ねえ。幹さん」

 「ん」

 「基督は贖罪の為に処されたんですよね」

 「ああ」

 「罪は命で贖えるものなんですか」

 「否、できない」

 「でも、基督の命で赦されたじゃないですか」

 「基督は、神が人々を赦す為に、地上に遣わされたんだ」

 「あ。知っていますよ、それ。受肉ってやつですよね。杉形神父の本読みましたから。」

 「そうだ。基督は神の子だ。だからこそ、贖う事ができた」

 「そうですか」

 深くため息をついた冷えた夜気が肌寒く感じられた。

 「赦す、赦さないは神の意志なのですね」

 「そう。そして罪を贖えるのは神の子のみだ」

 思わず隣を見遣った。堂内を覆う薄闇に染まって、幹さんの顔が青褪めて見えた。

 「でもヒトですよね」

 「人」

 「いえ。生物学的なヒト。カタカナのヒトです」

 「根本的には神の子だよ」

 「根本的に、でなくて厳密には、です」

 僕は努めて笑顔を浮かべることを意識しながら云った。
 幹さんが押し黙った。途端に不安になった。怒らせてしまったのかもしれない。僕の顔から血の気が引く。くそが。自信に毒づいた。

 「寺川君は変わっているな」

 幹さんは微笑していた。

 「異端者ですから」

安堵して、笑みを以て応えた。こいつ。そう呟くと幹さんは嗤った。形の良い青白い歯が見えた。

 「それに、なんだか大人びている」

 「そうでしょうか」

 「うん」

 そうだろうか。僕は餓鬼臭いと父から云われ続けていた。事実そう感じていた。未だ自己確立というやつさえできていない糞餓鬼だ。父に反抗すらもできない。母が死んでから僕は父の殴打に耐え続けた。死んだ母の変わりだ

 「僕よりも、ここにいる人達の方が大人びていませんか」

 幹さんは僕の科白に驚いたふうだった。

 「そうか」

 「ええ。なんて云うんでしょうか。自分に沈溺してるって云えばいいのかな」

 「まあ、ここにいる子達は皆問題を抱えているからね。自然とそうなるんだよ」

 二人で苦笑した。

 「だが、君は違う」

 「は」

 思わぬ言葉に驚いて聞き返した。

 「達眼を持っている」

 「買い被りです」 

 口端がわずかに上がっていた。

 「からかわないでくださいよ」

 「心外だね。からかってないよ」

 「以外といじわるですね」

 「お互い様だよ」

 幹さんが吐く息を眺め続けた。息は白く輝きながら、やがて教会の空気に溶けていく。断続的に吐き出される白い息を見詰めていると、不意に寒気を感じた。くしゃみをする。白い息が掻き消えた。

 「寒いですね。この前迄はそんなことなかったのに」

 「寺川君は最近、内地から越して来たんだよね」

 「内地、つまり本州」

 「ああ。ええ、一ヶ月程前に」

 一ヶ月程前、僕の家族はこの街に引っ越した。この街は父の故郷だった。父は以前この修道院に世話になっていた。杉形神父の云った事だが、父が多額の寄付金を払うのもその為らしい。

 「十月だろう、今。十月にもなれば急に冷え込む」

 「成程」

 「もう寝た方がいい。風邪をひく」

 「まだ眠たくないですよ」

 「風邪をひいたらどうするんだ」

 僕は自分の意見他人に通すことが苦手だ。仕方なく立ち上がり、幹さんの後ろについて扉に向かう。
 扉の前まできた時、幹さんが歩みを止めた。

 「そういえば」

 「なんです」

 僕も立ち止まった。幹さんが振り向く。

 「何か悩みでもあるのか。寺川君」

 質問の意図が解らなかった。そもそもなぜこんな事を訊く。
 訝しむ僕に遠慮しがちに云った。

 「讀罪」

 苦笑。

 「ありませんよ。そんなもの」

 悩みがあると思われても仕方が無い。毎夜聖堂に籠もり、讀罪について熱心に問う少年の姿は僕でさえも何か悩みがあると思い込むだろう。苦笑すると共に、他人にそのような素振りを見せた自信に苛立った。

 「そうか。何もないのだったらいいんだ」

 無い。そう、悩みなんて無い。讀うべき罪なんてない。

 「あるのですか。幹さん」

 「ないよ」

 「そうでしょう。悩みなんてある人間いませんよ」

 「君は祈っている様だった」

 苛立ちが募る。殴りたくなる衝動をそっと耐えた。

 「寺川君の様に祈る人間を未だ見た事ないな」

 「僕は祈らないですけどね」

 幹さんが苦笑した。

 「まあ、そうだろうね」

 幹さんは、僕に神をもちださない。神父や修道士ならばここで神がでてくる。

 「最後に一つ訊いてもいいか」

 「何をです」

 「将来の夢とか」

 爆笑した。

 「やっと笑ったね」

 僕は暫く俯いて嗤いを堪えていたが、急に真顔になって見せた。

 「幹さんはどうなんです」  幹さんが耳の裏をかいた。

 「一応、あるよ」

 へえ。

 「修道に進もうと思う」

 修道。神への道。

 「だから、宗教科の大学へ進学しようと考えている」

 嗤ってやった。

 「それは将来設計ですよ。夢って、もっと抽象的な事でしょう」

 「そうだね」

 僕に迎合すると、幹さんは嘆息した。

 「こう言おう、あの方の御許へ近づきたいたいんだ」

 息が溶けていく。白く輝きながら、蒼褪めながら。
 息を見詰める。悪寒を感じた。殺意を覚えた。

 「僕にもありますよ」

 幹さんが目を見開いた。歩を進め、幹さんの前に出た。

 「尤も、小さい頃だったものなんですけれどね」

 云いながら振り向いた。

 「国を造りたかったんですよ」

 「無理だろう」

 「だから小さい頃のものだと云ったじゃないですか」

 「国と云っても、日本や米国じゃないですよ」

 「と云うと」

 「ロボットの帝国です」

 「ああ、成程。」

 合点がいったとでも云うように頷いた。

 「実に子供らしいでしょう」

 「ああ。意外だったな。それで君は主か」

 「いえ」

 「あ。皇帝か」

 「いえ。近いけど、少し違う」

 「なんだ」

 「えっと、天帝とでも云えばいいんでしょうか」

 幹さんの顔が幽かに強張ってたのが、見て取れた。

 「心の無いロボット達が絶対的な存在である僕、つまり唯一自己を持つ僕に依存して、僕の為に働き、働き、帝国を造り上げていってくれるんです」

 目線を上げた。磔刑像が視界に入った。蒼褪めた基督は、まるで本物の死体の様だ。身を捩り、腰に薄布を帯びた担架の男は真に罪人に云うのにふさわしい。なぜ、父も、幹さんもあの薄汚い罪人を求めるのか、僕には理解できない。

 「寺川君、それは冒涜だ」

 思わず笑みを浮かべた。幹さんの眼に僕の笑顔は毒々しく映っているだろう。
 扉を開け、聖堂の外へ出た。窓外から射す月の光で照らされた灰暗い通路を進み、自室へ戻った。


つづく  
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