宇喜多秀家(うきたひでいえ)
1572(元亀3年)〜1655(明暦元年)
*享年84歳



*幼名は八郎である。
その後家氏と称し後に秀吉に一字を賜って秀家に改める。
父は岡山城を居城として備前南・西部や備中の東南部や美作の久米郡を支配する戦国大名であったが織田氏と毛利氏の争いに挟まれ、どちらにつくかを悩み一旦は毛利方につくが、1579(天正7年)に離反して織田方として毛利氏と戦う。
その父が1581年(天正9年)に53歳で亡くなると、秀吉の斡旋により僅か10歳にして父の遺産相続を信長から許され、備中東半と備前、美作等合わせて50数万石を認められる。
以後彼は秀吉の寵遇を受け秀吉の養女の前田利家の娘を妻に迎えたりして豊臣・前田両家と縁戚関係を結んだり、一字を与えられたりした。
また彼は四国遠征や九州遠征、小田原遠征に従軍し、さらに文禄、慶長の役でも渡航して活躍している。
また自国の内政にも力を入れ、岡山城を大改修したり、新田開発や商工業の育成も積極的に行うなどした。
1598(慶長3年)5月には秀吉から五大老の一員に列せられる。
しかし1600(慶長5年)関ヶ原の戦いが起こると彼は三成方に力を貸し16000余りの兵力で関ヶ原に望み福島正則を相手に奮戦するが結局戦は西軍は敗北・・・・。
秀家は山中へ隠れ、やがて島津義弘氏の庇護を約3年受ける。
その後自首し、1603(慶長8年)前田家、島津家の助命嘆願により死罪を逃れる。
しかし駿河久能に幽囚の後、1606年(慶長11年)に八丈島に流罪となり、終生前田氏から仕送りを受けるものの苦しい流島生活を送りその約50年後の1655年(明暦元年)11月20に病死する。
秀家が八丈島に流罪になって以来この島は重罪人の流刑地として利用されるようになったようである・・。
因みに関ヶ原の戦いに参加した大名で一番最後に死んだ大名はこの秀家あった。

 
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