上杉(山内)憲政(うえすぎ(やまのうち)のりまさ)
1523(大永3年)〜1579(天正7年)
*享年57歳



*山内家当主で別名:五郎・憲当で官職:兵部少輔で幕職:関東管領・武蔵・上野守護兼務で法名:臨川寺立山光徹である・・・・。
父・憲房が死んだ時、憲政が幼少であったので養子の憲寛が家督を継いでいたが、1531(享録4年)憲政が憲寛を攻めて上総国へ追い、関東管領職を譲らせた(恐らく、家臣を顧みない憲寛を上杉家臣達がまだ当時10歳に満たない憲政を擁して追放したのであろう)。
1541(天文10年)、信濃へ侵入した甲斐守護・武田信虎に攻められた上杉氏の被官・海野棟綱は上野国へ逃れ憲政を頼った・・・・・。
これを受け、憲政は信濃国小県に出陣している。
1545(天文14年)、憲政の運命を決めた戦いが北条氏康との間で武蔵国河越で起こった。
この戦いは河越夜戦と呼ばれ、日本三大夜戦に数えられている・・・。
扇谷上杉朝定と供に憲政は北条綱成が守る河越城を包囲、古河公方・足利晴氏にも出陣を要請した。
これに、晴氏は応えて河越へ出陣、包囲軍は8万余騎にもなったが、なかなか城が落とせず年が明けてしまった。
その間、氏康は積極的に戦おうとせず、和睦交渉を繰り返し申し入れてきていたため、氏康を侮っていた上杉方は、突如の夜襲に数に劣るはずの北条勢に大敗した。
これにより、扇谷上杉朝定は敗死、憲政の有力被官だった藤田泰邦・大石定久らは北条方寝返ってしまう・・・・。
敗戦後、居城・平井城に帰還した憲政は、菅野・上野両氏を重用し、譜代の家臣を疎んじるようになった。
菅野氏は上野国菅野庄に拠り、憲頼は憲政の一字を与えられた。
その憲頼の娘婿で信濃国志賀城城主・笠原清繁が攻められた際、1547(天文16年)、重臣・長野業正の反対にも関らず、金井秀景をして援軍を出すも敗北をしている。
そんな中、北進する北条勢は着々と勢力を拡大、憲政は1549(天文18年)にかつての被官だった越後国の平子房長を通じて、長尾景虎に救援を依頼した。
これに対し、景虎は憲政からの直接の依頼があれば関東へ出陣すると返答している。
1551(天文20年)に北条氏康は平井城に来襲、憲政は太田資正の武蔵岩付城か、長野業正の上野厩橋城へ移ろうかとしたが、曾我祐俊の勧めで長尾景虎を頼る事とした(その少し前、憲政は常陸の佐竹義昭を頼り、上杉氏の名跡と関東管領職を譲るとしたが、義昭は関東管領職を継ぐことを容れたが、上杉氏を継ぐことは拒否した。佐竹氏は、かつて上杉憲定の子義憲が佐竹義盛の家督を継いだ間柄であった・・・。)。
翌年、憲政は越後へ入り、府内の上条屋敷に落ち着いた。
1559(永録2年)、上洛した長尾景虎は、憲政の進退を将軍・義輝から頼まれ、憲政は景虎を養子とし、上杉氏の系図・重宝を渡して関東管領職を譲った・・・。
憲政は景虎に関東出馬を望み、それに応えて景虎は出陣、上野厩橋城で越年して翌1561(永録4年)、鎌倉に入って鶴岡八幡宮の社前で関東管領職を襲い、拝賀の式を挙げた。
これに際し、景虎は上杉政虎と改名する。
そして、北条氏の居城・小田原城を途中で加わった関東勢も含めて11万とも言われる軍勢で包囲し攻めたが堅牢な城は落ちず、越後へ帰還することとなる・・・・。
1578(天正6年)、上杉謙信(政虎)の急死により、謙信の養子・景虎と景勝の間で家督争いが起きる。
憲政はその仲介をしたが成功せず、結局、景虎に頼られて府内の御館で自害した。
北条氏康に国を追われ、その氏康の子に頼られて自害、なんとも皮肉な話である・・・。
なお憲政の人物像について、「北条記」では、「幼少にて父憲房にをくれ、我侭に成人し玉(給)ひければ、仮にも民の愁ひを知らず、人の嘲りを顧みず、侈(おごり)を極め色に耽り、酒宴にのみ日を送る。之に依り佞人は日を追って集り、賢人は自ら去る。」と評している・・・・・。

この投稿は伊東義祐さんです。どうもありがとうございました!!
 
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