上杉(山内)憲寛(うえすぎ(やまのうち)のりひろ)
????(???年)〜1551(天文20年)
*享年?歳



*山内家当主で幼名:賢寿王丸で称 :宮原御所で幕職:関東管領で別名:四郎・晴直で法名:春敲院得月道台である・・・・。
憲房が病死した時、その子憲政が幼少だったため、三代前の当主・顕定が生前に古河公方・足利高基の次男・賢寿王丸(憲寛)を養子にする約束を結んでいたことから、それに従い彼を山内上杉氏の家督を継がせて関東管領とした。
これを機に、憲房と対立していた長尾為景は憲寛と和睦した。
1528(享録元年)、公方高基の子・亀若丸は元服し、将軍・足利義晴の一字をもらい晴氏と名乗った。
これは長尾為景が幕府に仲介し、元服の費用もいっさい為景が負担した。
これを頼んだのは、憲寛とその家宰・長尾憲長である。
1531(享録4年)、憲寛は憲政に攻められ、上総国真里谷城主・武田信政の勧めで同国宮原に移り、小弓公方・足利義明の娘を妻とした。
憲寛は、上杉一族の出身の人間ではなかったため上杉氏の家臣との間がうまくいかず、また憲寛自身家臣を顧みなかったことから、関東管領職を憲政に譲らざるをえなかった。
憲寛は、後に晴直と改め、その子孫は旗本として徳川氏に仕えた。

この投稿は伊東義祐さんです。どうもありがとうございました!!
 
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