上杉(山内)憲房(うえすぎ(やまのうち)のりふさ)
1467(応仁元年)〜1525(大永5年)
*享年59歳



*山内家当主で、別名・五郎で官職・兵庫助で幕職は関東管領・武蔵・上野・相模守護兼務であったという・・・。
憲房は、名君と名高かった上杉憲実の孫で、京都大徳寺の僧であった秀晟蔵主の子だったが関東管領・上杉顕定の養子となった。
山内・扇谷両上杉氏が争った長享年間の大乱に顕定とともに各地で戦っており、越後へ長尾為景討伐のため出陣した際にも同行している。
顕定が長森原の戦いで敗死すると、関東に逃れたという・・・。
この年、長尾為景の支援受けた北条早雲・長尾景春に内応した扇谷上杉朝良の被官・上田政盛が武蔵国神奈河の権現山に挙兵した。
上野国白井城にいた憲房は、朝良加勢のため家宰・長尾景長に配下の諸氏をつけて政盛を攻撃させた。
また、先代・顕定はその死に臨んで古河公方足利政氏の子・顕実を養子として家督を譲るように遺言したが、公方政氏・高基父子の不和から政氏方の顕実と高基方の憲房とが争った。
1512(永正12年)、武蔵鉢形城の顕実を攻め、古河城に敗走させて実力で山内家の家督を継承した。
しかしその頃、越後では長尾為景に守護に擁された上杉定実の軍勢に上田坂戸城を攻められ裏切りが出たり、小田原の北条氏が相模を平定、古河公方と縁組を行うなど勢力を伸張していた。
その後も北条方との抗争が続き、憲房の政権は不安定な情勢の中にあった。
そうした中、憲房は上野国平井城で病没する。
法名は竜洞院大成道憲である。
没した翌年、生前の意思で「十八史略」を足利学校に寄進している。
また、印文は明らかではないが、憲房は眼病であったらしく、そのために印判を用いていたようである。

この投稿は伊東義祐さんです。どうもありがとうございました!!
 
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