上杉(山内)顕定(うえすぎ(やまのうち)あきさだ)
1454(享徳3年)〜1510(永正7年)
*享年57歳



*山内家当主で官職*民部大輔・右馬助であり幕職*関東管領・武蔵・上野守護兼務であり別名は四郎という。
山内上杉房顕の死後にその養子に迎えられ、関東管領として13歳で家督を継ぐ。
山内上杉家の家宰・長尾景信の没後、その家臣で寺尾・海野両氏が弟・忠景を後継にしたため、景信の子・景春が不満を抱いて扇谷上杉氏の家宰・太田道灌に相談をもちかけた。
道灌はこれを受けて顕定に景春を武蔵守護代に任じて慰留するよう仲介したが、顕定はこれを取り上げなかった。
これが原因で、景春は顕定に恨みを抱く事となる。
当時、古河公方・足利成氏と上杉氏は対立状態にあり、1476(文明8年)に景春は成氏に味方して反乱を起した。
そして、武蔵・相模の軍勢を武蔵五十子陣に集めて上杉方を攻撃、顕定は敗走してしまい上野那波庄に退いた。
1488(天明10年)成氏方からの和睦の申し出(成氏書状では上杉方から和睦を申し出た事になっている)により(「都鄙の和睦」)、収束へ向かう事となるが、翌年、足利成氏は上杉房定を仲介として幕府に和議を申し出た際、顕定・定正の和睦の対応を非難している。
そうした中、山内・扇谷の両上杉氏の間に隙を生じ、道灌が河越・江戸城の修理を行ったのだが、顕定はこれに不安を感じて扇谷上杉定正に道灌に異心ありと中傷したため、1496(文明18年)道灌は定正に殺害されてしまう。
これを契機として、周辺諸勢力を巻き込み山内方と扇谷方とに分けた長享の大乱へと発展してしまう。
戦いは一進一退を極めなかなか決着がつかなかったが、1504(永正元年)の武蔵立河原の合戦で、越後守護の弟・房能や北条早雲・今川氏親の支援を受けて顕定は扇谷方に勝利を得た。
ところが、房能が越後守護代・長尾為景に攻められ自害すると、顕定は軍勢を率いて越後へ出陣するが長森原の戦いで敗死してしまう。
法名は海竜寺可諄皓峰である。
ちなみに彼はは図画を好んだようで、文殊・普賢二大士図や柳図を描いており、これに対する賛が現代に残っている。

この投稿は伊東義祐さんです。どうもありがとうございました!!
 
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