長宗我部元親 (ちょうそかべもとちか)
1539(天文8年)〜1599(慶長4年)
*享年61歳



*彼は土佐国岡豊城で生またという。
幼少の頃は背が高いが、色白で、日々部屋に籠もって挨拶すらしなかったので「姫若子」とあだ名される程軟弱者と思われていたようである・・。
彼が従軍した長浜合戦の時もぼんやりしていて父から「うつけ者」と罵られるほどだったという・・・。
その為か初陣も遅く彼が1560(永禄3年)22歳の時の長浜合戦においての戸の本での戦いが初めてで、槍の突き方も知らずに家臣にそれを教えてもらうほどであったほどとまで言われる(しかしながらいくら何でもこれは誇張だと思うが、その位期待されていなかったというのは本当であろう)。
しかし元親は主戦場からやや離れた戸ノ本という所に50騎ほどで控えて、そこに約5倍の兵力の本山茂辰軍が攻めてきて、彼はその50騎ばかりの兵力で奮戦し、自らも槍で2、3人突き倒し襲いかかった敵を敗走させ長宗我部軍の士気を大いに上げ、その勢いで彼は潮江城も占領してしまったという。
この戦い以後は『姫若子』から『土佐の出来人』と呼ばれるようになったという・・・・。
その後父が死ぬと、父の意志を継ぎ、1568(永禄11年)には本山氏を降伏させ、1569(永禄12年)には安芸氏を滅ぼし、その後一条氏領を実質支配してその後一条兼定を四万十川合戦で破り、1575(天正3年)ついに土佐を統一する・・・。
その後は、伊予や阿波や讃岐に進出し、途中毛利家や織田家等の妨害はあったものの途中、中国攻めや本能寺の変等がありそのおかげで元親は進出が容易になり最終的には10年ものの歳月をかけて1585(天正13年)1月ついに四国全土の覇者となる。
しかしその喜びもつかの間で、その3ヶ月後には秀吉が四国征伐に乗り出し、大軍の前にの前にはなす術なく降伏し、土佐一国を安堵される。
この後は忠実な秀吉傘下の大名となり、小田原攻めの際には軍艦*大黒丸に乗り土佐水軍を率いて海上を封鎖したりする活躍を見せている・・・。
しかし、九州征伐の際の戸次川の戦いて゛嫡男の信親が戦死すると後追い自殺を考えるほど落胆し、秀吉より大隈一国の加増が申し入れられるが辞退した。
四男の盛親を跡継ぎに決めるが、反対派の家臣を殺害したり、2男、3男を幽閉するなど、暴君に変貌してしまい、晩年は不遇のうちに終わってしまう。 
また仏教、儒学に関心を持ち、和歌、茶道などにも精進していた文化人でもあったようである。
因みに彼の四国統一が遅れたのは単に大国からの妨害だけではなく、長宗我部軍が、農兵を主力していたため専門の兵と違って常時戦ができなかったのも一つの原因といえるであろう・・・。
また、織田信長は彼を、「鳥なき島の蝙蝠(こうもり)」と評したという・・。
まあ微妙な評価とは思うけどね・・・。


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