藤堂高虎(とうどうたかとら)
1556(弘治2年)〜1630(寛永7年)
*享年75歳



*近江国犬上郡藤堂郷で生まれる。
幼名は与右衛門である。
父は武田信虎に仕え、その後浅井家に仕えたようである。
十四歳のとき浅井長政に属し、父とともに姉川の合戦に従軍しそれが初陣となった・・・。
浅井氏滅亡後は阿閉氏や磯野氏や織田信澄等転々と主君をかえて最後に羽柴秀長に300石で仕え秀長の家来として、秀吉の中国攻めや山崎の合戦、賎ヶ岳の合戦等に従う。
秀長に彼の才能や実績を高く評価され、秀長に仕えて十数年後の1591(天正19年)に主君・秀長が死ぬまでに紀州粉河2万石を領するようになっていた。
その秀長が死ぬと、一時は秀保に仕え筆頭家老として活躍するがその秀保も17歳で早世したので主君を思ってか高野山に隠棲したが、その後秀吉に招かれ山を降りて伊予国7万石を領す。
で、その秀吉も死ぬと今度は徳川家康に近づき、1600(慶長5年)関ヶ原戦では東軍に参加し本戦でも活躍し、大名に工作活動を展開し、何人かを寝返りさせるなどしている。
この戦功で伊予半国20万石を賜り、1608(慶長13年)には伊賀一国・伊勢8郡20万石余と今までの今治2万石計22万900石を賜る。
大坂の陣では先鋒を努め長宗我部盛親隊と戦い300人余の戦死者を出すものの大活躍をした。
戦いには勝利し、伊勢国内で5万石(参戦武将では最高)を与えられ合計27万900石余を領した。
彼は家康の信頼が厚かったようで「永久に伊賀の地を保証し、大乱が起こった時は先鋒を務めよと」と遺言したらしいからよほどすごい信頼を得ているのだと思う(あの家康に)。
また高虎は秀忠の信頼も厚く、外様でありながら譜代並み、いやそれ以上の待遇を受けることになり、その高虎の徳川家に対する献身的な忠誠心は、江戸時代を通じて藤堂家を移封や転封や改易させることなく命脈を保たせたと言う。
彼は戦国武将の中でも一、二を争う世渡りのうまさと、自分を認めてくれる主君への忠義心の強さとそれに勝る能力を持った人物であると思うがどうか?
最後に・・・・決してごますり武将などではない!!


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