鳥居強右衛門 (とりいすねえもん)
1540?(天文9年?)〜1575(天正3年)
*享年36歳?



*幼名は平蔵で、三河長篠城主奥平奥平信昌(この時点では貞昌)家臣であり、長篠合戦の勝利の立役者の一人といえるであろう。
1575(天正3年)5月8日、長篠城は武田勝頼1万5千の大軍に包囲され落城の危機に瀕していた。
そこで、彼は密使となり14日夜半、武田軍の包囲からなんとか脱出し、15日に岡崎城の徳川家康と織田信長に会い、長篠城の危急を伝え救援を要請するとこれを受け入れられたので、その吉報を早く仲間に知らせ城の人々を安心させようと思いすぐ取って返して長篠城へ戻ろうとするが、結局武田軍に捕らえられてしまう・・・。
普通なら死刑なのだが、この時勝頼が「褒美をやるから、援軍は来ないので降伏せよ」と長篠城内へ告げるように命じたが、彼はそれを偽って承諾して、城門の広前へ連行され、そこで大声で「近日中に援軍が来るのでそれまで持ちこたえよ!!」と叫んだ。
勝頼は怒って即日、彼を長篠城兵からよく見えるところで磔にされた。
しかし、見せしめのつもりが逆に長篠城兵の士気を高める結果となり、ついに織田・徳川連合軍が到着するまで城が落ちることはなかった・・・・・。
彼がその時代の人々や、後の世の人々等多数の人に賞賛されたのは言うまでもない話であろう・・・。
彼こそ忠臣の鏡といえるであろう・・・。
もし彼が勝頼の言うとおりにしていたら、城は落ち織田・徳川連合軍も苦戦していたかもしれないのでは、と考えてみれば歴史は良く作り込まれたドラマだと思う・・。
彼自身は身分の低足軽だったが、功績が評価されたか強右衛門の子孫は千数百石の上級武士となって徳川家へ仕えたという。


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