柴田勝豊(しばたかつとよ)
????(????年)〜1583(天正11年)
*享年?歳



*名は伊介といい、伊賀の守と称す
父・渋川八左衛門と母・柴田勝家の姉との間に生まれ、初め、勝家古参の臣・吉田次兵衛の養子に迎えられたが、後に転じて勝家の養子になり、越前国丸岡で4万5千石を領したという・・・。
1576(天正4年)丸岡城城の築城を始め、このとき、城下町も整備した・・・・。
本能寺の変後の1582(天正10年)、清洲会議にて、勝家が長浜を入手し、その領土を勝豊に託し、長浜城主に移封する・・・。
しかし同年11月、秀吉と勝家の対立が深まると、勝家は勝豊に命じ秀吉との講和を謀らせたが結局実現せず、その後秀吉に長浜を攻められあっさり人質を出して降伏したという・・・。
彼が、あっさり秀吉に降りたのは、養父・柴田勝家が、甥の佐久間盛政ばかりを寵愛し、また実子も生まれて、次第に二人の中は疎遠になり、彼は勝家にかなりの不満を抱いていたからだったという・・・。
それが原因かどうかはわからないが、秀吉は降伏した勝豊を寛大で好意的に扱い、そのまま長浜城にとどまる事を許したという・・・。
翌1583(天正11年)賤ヶ岳の戦いが勃発すると、秀吉軍の先鋒の二番隊として、堂木山の守りについたが、やがて病を発し、与力に代理として秀吉に加勢させ、療養のため京都に退いた・・・。
この時も秀吉は好意的であったようで、名医と評判の由直瀬道三を遣わせてその診察にあたらせたが、その甲斐なく、病死してしまう・・・。
因みに、今でも勝豊の建てた丸岡城の天守閣は現存する日本一古い天守閣として、国の重要文化財に指定されています。

 
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