佐久間盛政(さくまもりまさ)
1554(天文23年)〜1583(天正11年)
*享年30歳



*織田信長の家臣・盛次の嫡男で、母は柴田勝家の姉なので柴田勝家の甥にあたる・・・。
父の戦死のあとを継いで、信長に仕えたという・・・。
玄蕃允と称していたが、1576(天正4年)の加賀一揆の平定戦などの活躍等、若年より勇猛果敢で合戦のたびに武功を挙げたので世人から「鬼玄蕃」と呼ばれていたという・・・・。
1580(天正8年)には信長の下命により勝家の麾下に入り、加賀尾山城を領した・・。
また1582(天正10)には、本能寺の変に乗じて能登石動山の衆徒が反乱を起こした際には、前田利家を助け多くの敵将を討ち取り、彼の武名はますます上がった・・・。。
しかし、翌年、賤ヶ岳の戦いが勃発すると、勝家の先鋒を務め、中川清秀の守る要塞を破り清秀を戦死させる等の活躍を見せるが、功をあせり進退の機を誤まり、秀吉の軍勢に急襲され、全軍壊走の因を作ってしまう・・・。
その後捕虜となるが、秀吉にその武勇を惜しまれ秀吉に「肥後国をやるから秀吉を勝家と思い家臣になって慕って欲しい」といったが、勝家を死に追いやったことに責任を感じたかそれを拒否し、結局は市中引き回しの上、京都三条河原で斬首された。
なお秀吉は、よほど彼を気に入ったのか、死の際で彼が所望した大紋を染め抜いた紅色の広袖に、裏紅梅模様の小袖を死に装束として贈呈した・・・。
その上、後に秀吉は盛政の娘・虎姫と、中川清秀の息子・秀成との結婚を中川家主従の反対を押し切って結婚させた・・・。
後にその子供が、佐久間盛政の家系を再興させたという・・・。
秀吉の盛政に対する執拗ぶりが伺えるエピソードと言えよう・・・。

 
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