奥平信昌(おくだいらのぶまさ)
1555(弘治元年)〜1615(元和年)
*享年61歳



*最初は貞昌と名乗る。
武田信玄が三河に侵攻すると、妻らを人質に出して武田家に従属するが、後に武田家を見限り長篠城を守ることになる(因みに彼の妻はその後武田家に処刑されてしまう。)。
妻を殺された恨みか、鳥居強右衛門(とりいすねえもん)を城の目の前で磔にされた恨みか、武田勝頼の約1万5千大軍に取り囲まれて、投降を呼びかけられるも僅か数百(3,4百)の兵力で信長の援軍が来るまで死守することに成功する。
その後援軍にやってきた信長・徳川連合軍は武田勝頼軍に勝利した。
長篠合戦後その起因(原因のこと)を作ったとして、激賞され織田信長から諱(いみな)の「信」の一字を貰い、定昌を信昌と改める。
その後は1584(天正12年)小牧・長久手の合戦では秀吉方の森長可を破り約200の級を得る手柄を立てた・・。
1590(天正18年)の小田原戦後家康が関東に入国の際、上野国宮崎三万石を与えられる。
1600(慶長5年)9月より1601(慶長6年)3月まで京都所司代をつとめその間に関ヶ原戦の負将の安国寺恵瓊を捕らえたりしている。
1601(慶長6年)3月には美濃加納10万石に加増移致される。

 
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