直江兼続(なおえかねつぐ)
1560(永禄3年)〜1619(元和5年)
*享年60歳



*山城守で幼名与六で、上田長尾氏・長尾政景の家臣・樋口惣右衛門兼豊の長子で幼い頃から利発な子供として政景の妻、仙洞院(謙信の姉)に認められ上杉景勝の近侍となる。
一五六四年、政景の死にともない、二人は謙信の居城・春日山城に移り住む。
謙信の突然の死により、上杉景勝と上杉景虎(北条からの養子)とのあいだに家督争い(御館の乱)が生じるが、兼続の外交戦略により景勝側の勝利となり景勝が家督を継ぐ。
その後一五八二年、景勝の命により名門・直江家の名跡を継ぎ、名実ともに上杉家の宰相となる。
その後、秀吉政権下につき、景勝が五大老の一人として越後九十一万石から会津百二十石に加増された際、家臣である兼続に対して、米沢三十万石という大録を与えられた。
しかし秀吉の死後、五大老の一人徳川家康と対立、家康は会津討伐の軍を起こし出兵し、関ヶ原の合戦へと進んでいった・・・・。
しかし西軍は破れ翌年、景勝と兼続の主従は謝罪のため上洛する・・・。
謝罪の甲斐あってか、上杉家は改易は免れたが、米沢三十万石への減封となり、兼続自身も五万石の所領のみとなる・・・。
大阪の役では家康方として参戦する・・・。
その翌年米沢にて没す・・。
兼続は日頃から学問を好み、農政や商工業などの発展に尽力し、また米沢に禅林文庫を建て、朝鮮の役でも文献収拾に努めたと言われる。
まさに文武兼備の名将と呼ぶにふさわしい武将である。

この投稿は池田輝政さんです。どうもありがとうございました!!

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