中川清秀(なかがわきよひで)
1542(天文11年)〜1583(天正11年)
*享年42歳



*通称瀬兵衛、幼名は虎之助である。
初めは池田勝政に仕えていて、1572(元亀3年)、織田信長と対立していた和田惟政を討ち取り約500貫の地を領しその後茨木城主になったという。
その後は織田信長に仕えて荒木村重の配下になるが、その村重が信長に背く気配を見せると、彼はしばしば村重を諫めたが、最終的には村重が信長を背いたので結局高山右近らと共に信長の陣営に属す事となる・・。
1582(天正10年)明智光秀と羽柴秀吉との山崎の合戦では、秀吉方につき、前夜のうちから天王山に登り攻め込むチャンスをねらい、そして光秀方の武将の御牧三左衛門や伊勢貞興らを討ち取るといった手柄を上げている・・。
しかし1583(天正11年)4月賤ヶ岳の戦いでは手勢僅か1000人で大岩山の砦を守り佐久間盛政4000人と戦い奮戦するも衆寡敵せず、ついには討ち死にする。
なお彼の遺体は大岩山の頂上に葬られた・・・。


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