森忠政(もりただまさ)
1570(元亀元年)〜1634(寛永11年) 
*享年65歳



*森可成の6男で幼名は千丸である。
父*可成や可隆・蘭丸・坊丸・力丸、そして次兄*長可まで戦死してしまったので6人の息子の中では彼一人が生き残り、次兄長可の遺領の美濃金山7万石を継ぐこととなる・・。
余談ではあるが実は彼は1582年の春頃から信長の小姓として出仕していたのだが、先輩小姓とのもめ事が原因で、信長に金山城へ追い返されている(もし追い返されていなかったら数ヶ月後本能寺で死んでいただろう)。
その後は、秀吉の下で忠勤を励み、羽柴姓を得るが、秀吉の死後は家康に属し、関ヶ原の役では秀忠軍に属し上田城を攻撃では敵兵数百人を討ち取ると言った活躍をしている。
1603(慶長8年)2月には、小早川秀秋の没領のうち美作国(備前)約18万6千石を領有し津山藩祖となる。
因みに現在の岡山県津山市は彼の命名によるものである。
その後彼は築城や街のづくりにも力を入れている。
また大坂の役でも敵200人を討つような活躍をしたようである。
彼は最後は京都で桃を食べた事による食中毒で死んでいるが65歳という高齢なら仕方ないであろうし充分天寿を全うしたと思う。
恐らく森家の者の多くが戦没しているのに彼一人だけ戦国の波乱を乗り越え天寿を全うできたのは、上で挙げたような強運の持ち主であった事は勿論、父や兄弟達の死を見て形成されたかと思う温厚慎重な性格が功を奏したからではないだろうか?

 
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