三好長慶(みよしながよし)
1523(大永3年)〜1564(永禄7年)
*享年42歳



*三好家全盛期の当主で、幼名を千熊丸と言い、初めは範長と称していたという・・・。
なお「ちょうけい」と読むのは俗称である・・。
1532(天文元年)、父の政長が三好政長、木沢長政らの讒言により細川晴元に討たれると僅か10歳にして家督を相続する。
その後本願寺と細川晴元との講和を仲介するなどの活躍を見せこれらの功績により1534年(天文3年)には木沢長政の勧めで管領細川晴元の執事として河内と和泉の代官となった。
しかしながら1539(天文8年)に幕府御料所河内17カ所を要求したがこれを許されず、激怒した長慶はついに晴元打倒の兵を挙げる。
晴元とは一時的には和睦を結ぶものの、まず河内国で木沢長政を破り、1548(天文17年)には三好政長を排除しようとして諸将と同盟を結ぶ等して晴元に背き対立する。
そして翌1549(天文18年)には政長を破って摂津を握り、入京し、将軍足利義輝を追放する。
そして1552(天文21年)にはその義輝と和解し、細川氏綱を擁して晴元と戦い長きの戦いの末ついに晴元から管領職を奪うことに成功し、彼の勢力は絶頂に達する・・。
しかし、三好政権の要ともいえる一族の三好義賢・十河一存・三好義興らを次々と失ったことから落胆してしまい、その上彼の執事である松永久秀が次第に勢力を伸ばしてきたので、彼の権力は次第に衰え始め、1563(永禄6年)嫡子の義興が久秀に毒殺?(そういう可能性が高い)され、さらに久秀の讒言を信じ込み弟の安宅冬康まで殺害してしまってからは政務を離れる。
その後河内の飯盛城で失意のうちに没した・・・・。

 
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