三浦義同(みうらよしあつ)
????(???年)〜1516(永正13年)
*享年?歳



*官位・官職は従四位下 陸奥守で幕職は相模守護で扇谷上杉定正の兄・修理亮高救の子で一般に「三浦道寸」と呼ばれる・・・。
相模守護・三浦時高には子が無かったので、義同が養子として迎えられた・・・。
しかし、時高に実子・高教が生まれると疎んじられ時高と不和になると、出家して道寸と称し、母方の実家である小田原城主・大森氏を頼って相模国足柄の総世寺へ隠世した。
その後、「北条記」に「義同の器量並びなく、才覚人に越えた」と評される程の将器を慕った三浦家重臣に擁立され、1494(明応3年)、相模三浦郡の新井城に時高・高教父子を攻め滅ぼして家督を相続、相模守護となった・・・。
これにより、扇谷上杉氏の本拠・糟屋館の南方に控える三浦氏の岡崎城に居城し、しばらく相模随一の勢威をふるう。 翌4年、小田原城を奪って北条早雲が相模に進出したため道寸と早雲は対立。
1512(永正9年)8月、伊豆・相模の兵を動員した早雲の大軍に攻囲されて岡崎城を支えきれなくなった道寸は住吉城へ移り、さらに新井城へと退いてしまう・・・。
新井城を北条方に包囲された道寸は、子の義意とともに三年に及ぶ篭城戦を展開する・・・。
しかしこの間、道寸の娘婿・太田資康(道灌の長男)が武蔵江戸から来援するが惨敗し、討ち死にしてしまう。
そして1516(永正13年)、糧道を断たれ飢えに苦しむ様になって城兵の衰弱が目立ちはじめた頃、これを見た早雲は同年七月に総攻撃を仕掛けた・・・。
覚悟を決めた同寸は、次のような(なんとも自棄な)辞世の句を残して自刃したと言う・・・。法号は瑞雲庵道寸。
「討つ者も討たるる者も土器(かわらけ)よ、砕けて後はもとの土くれ」。
家臣の人望厚く多くの期待を集めた武将であったが、その才を発揮する暇もなく北条氏の侵攻を受け、滅んでしまった名将であった・・・。

この投稿は伊東義祐さんです。どうもありがとうございました!!
 
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