斉藤道三(さいとうどうざん)
1494?(明応3年?)〜1556(弘治2年)
*享年63歳?



*幼名は峰丸である。
彼は一介の油売りとして身を起こしたと伝えられているがどうやら最近の研究によると元々父新左衛門尉が美濃の守護大名である土岐氏の家臣の長井氏に仕えて頭角をあらわしたというらしい。
つまりこの事から実は道三の出世物語の大半は父の出世物語だったと言うことである事が分かる・・。
ついでに言うなら父は油屋でなく僧侶であったらしい・・・。
その父親から家督を相続すると、彼は主人である長井氏を打倒し守護代の斉藤家を乗っ取り美濃の名族である斉藤の姓を名乗る。
そしてついには守護の土岐氏を倒して土岐頼芸(ときよりあき)を尾張へ追放し美濃一国を奪取しついに国盗りに成功した。
まさに親子二代で成し得た典型的な「下克上」といえるであろう。
そんな彼なので世間一般の人は「美濃の蝮」と称した。
しかしただ冷血な面ばかりある武将ではなく、(天文17年)対立関係にあった織田信秀と和睦するため信長ら自分の娘を嫁がせるなど外交面でも優れた力を発揮した・・。
また彼には先見の目もあったようで1553年春(天文22年)正徳寺に行って信長と初めて言葉を交わした道三は、その帰路「我が息子達は婿殿の門前に馬を繋ぐであろう」と信長の器量が並大抵ではないと評した。
これが有名な正徳寺の会見である・・。
しかしながらその道三も継嗣問題がこじれ嫡男義龍と長良川で戦うが衆寡敵せず1556年4月20日ついに敗死した・・・。
一説によると義龍の本当の父親は土岐頼芸と言う話らしいが果たしてどうか・・・。
一ついえるのは道三の遺体は八つ裂きにされたらしいので何らかの理由で義龍は相当彼を憎んでいたと言うことであろう・・・。

 
  戻る