片倉景綱(かたくらかげつな)
1557(弘治3年)〜1615(元和元年) 
*享年59歳



*後の白石城主で、伊達政宗の右腕になる人物で、通称小十郎である。
彼の父は米沢八幡の神職(神主)で母は政宗の乳母(一説には姉とも言われている・・。)となったようである。
彼には異才があったようで、それを遠藤基信が認め基信が彼を伊達輝宗にすすめ、後に政宗の小姓となった。
その後彼は、所々の合戦で数々の武功を立て、特に人取橋の戦いでは、劣勢の中本陣にて奮闘して政宗を守り抜く働きを果たし、摺上原の戦いでは、第二段を担当し猛烈な敵の寄せ手を前に激戦を展開して自軍が壊滅的被害を被るまで戦い続け、第三段を担当する伊達成実とともに蘆名軍の猛攻を受け止め伊達軍の大反撃に繋がる活躍を示し最終的に蘆名を滅ぼす事の立役者の一人となる。
しかし彼は武勇だけでなく優れた大局観を持っていたようで、1590(天正18年)の小田原征伐の時には、主君政宗を説き共に秀吉のもとへ伺候し、主家を危地から救うといった重要な働きもしている。
1602(慶長7年)12月には刈田郡白石(現在の白石市)に約1万6千石を領した・・。
この白石城は南の国境に位置しており軍事的要衝として極めて重要な城であったらしいので、そこに行かせると言うことは彼よほど政宗に信頼されていたと考えて良いであろう。
後に片倉氏の実収入は10万石にのぼったとも言われている。
なお彼は秀吉や家康からも認められていたようで、両氏からの加増話も、かたくなに固辞している。
もし彼がいなければ今伝えられている伊達家はなかったとも思えるような有能な忠臣だと思う。
また彼の息子も武勇に優れ大坂夏の陣で先鋒を努め活躍し、世の人々に「鬼の小十郎」と評されたという。

 
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