名雪編






 名雪からな。
 だいたい、俺と名雪がそういう関係になったことは知ってるはずだろ?
「従兄妹同士なのに」とか、散々からかわれた気がするが…。
 まあ、いいさ。

「香里なら、くれるだろう」
「え?」
「チョコ、欲しいんだろ?」
「あ、当たり前じゃないかっ!」
「大丈夫だよ、香里が渡す相手はお前しかいないし、それに…」

 俺は勿体つけてみた。
 これほど壊れた北川は初めてだからな。
 たまには、からかってみたい。

「そ、それに、何だよ!?」

 おうおう、あの北川がここまで狼狽するとは。
 そろそろ許してやるか。

「今頃、家で作ってるんじゃないか?」
「何を?」
「何をって、そりゃあ、お前のチョコに決まってるだろ?」
「・・・・・・・・・」

 北川は茫然自失といった感じで、突っ立っていた。
 五秒ほど呆然としていた。

「…それは本当か?」

 北川は我を取り戻し、期待に満ちた視線を向けてきた。

「ああ、絶対とは言えないが、きっとそうだろう」
「そうか…」

 ふぅ・・・。

 北川は気の抜けたような溜息を一つして、ブルブルと震えだした。
 うつむいているため、表情は分からない。

「どうした、北川?」
「フ・・・」
「ふ?」
「ふはははははは! そうだよな! そうだよな!!」

 叫びながら俺に抱きつき、そのまま飛び跳ねた。
 頭がガグンガグンと左右に揺れる。

「や、やめろ、北川・・・」
「アハハハハハ!」

 俺の声は届いていないようだ。

「よしっ! 今日は早く帰って寝るか!」

 ようやく離れた。
 首が痛い。

「ああ、そうしてくれ…」
「おう! じゃあな、相沢!」

 既に北川は学食の出入口に向かっていた。
 さっきから俺たちを、奇妙な物でも見るかのように見ていた群集の中へ、押入るように消えていった。
「…現金なやつ…」

 さて、俺も帰るかな。
 痛くなった首を回して、左右に曲げる。
 コキコキと小気味よい音がした。
 カバンを肩にかけ、立ち上がった。



 水瀬家の玄関。
 名雪から貰った鍵を鍵穴に差し込んでひねる。

 ガチャ

 ロックの上がる音。
 最近では聞き慣れてしまった音。

「ただいま」

 扉を開け、中に入る。
「おかえりなさい、祐一さん」と出迎えてくれる人、秋子さんはいない。
 未だに入院生活を余儀なくされている。
 しかし、俺と名雪がキスを交わしたあの日、秋子さんは意識を取り戻した。
 医師も言っていたが、まさに奇跡だった。
 だから、今は寂しくない。
 大切な人は帰ってくる、それは確かなことだから…。

(さて…)

 名雪もいないし、暇だな…。

(何処か出掛けるか…)

 この街で出掛けると言ったら、商店街しかない。
 それに、何か新しい発見があるかもしれない。

(よし、商店街に行くか!)

 俺は普段着に着替えると、コートを羽織り、水瀬家を出た。


 という訳で、商店街に来てみたが…。

「暇だな…」

 事態の改善は見られない。
 誰かいないかと彷徨ってみたが、誰もいない。
 仕方なく一人で百花屋に入り、コーヒーを飲む。
 何気なくメニューを眺めていると、大きな「新」の文字が目に留まった。
 よく見ると、新しいイチゴのデザートが追加されていた。

「イチゴのクレープか…、コレって前にもなかったか?」

 何となくだが、名雪と入ったときに見た気がする。
 結局名雪はいつも通り、イチゴサンデーを頼んでいたが…。
 しかし、メニューには大きく「新」の文字。

(マイナーチェンジでもしたんだろう)

 そんなことを考えながら、コーヒーを飲み干した。


 商店街から帰った頃、日は既に西に傾いていた。
 ドアノブに手を掛けると、鍵は開いていた。
 名雪が部活から帰っているのだろう。

「ただいま〜」


 シーン。

 誰も出てこない。

(なんだ? なんで出てこないんだ? そんなことでは、俺の嫁は失格だぞ!)

 仕方なしに居間に向かった。
 しかし扉に、

「関係者以外、立入禁止!!」

 と大きく書かれた紙が張られていた。
 扉の隙間から、カカオの独特な甘い香りが漂ってくる。

(ああ、チョコを作ってるんだな)

 仕方ない、部屋に戻ろう。
 俺は引き返し、部屋に戻るとベッドに横になった。

(しかしなあ、名雪…)

 はぁ…

 溜息をつく。

(バレるのがイヤだったら、俺が寝てる間に作れよ)

 ま、無理か。
 名雪は徹夜できないもんな。

(ははは…)

 あいかわらず抜けてるなあ、名雪は。



 ………。
 ……。
 …。

「祐一」

 ん?
 誰だろう、この聞き覚えのある声の主は。
 何か、懐かしい。

「祐一っ」

 また呼ばれる。
 あ、そうか、お袋の声だ。
 いつもはうるさいとか思っていたが、今は懐かしい。
 とにかく応えなくては。

「何? 母さん?」

 応えた俺の声は幼かった。
 それに、とっくに追い抜いたはずのお袋の背は、俺よりも高かった。
 これは夢?
 俺が幼い頃の夢なのか?

「今年も届いてるわよ」
「…何が?」

 予想がついているのか、幼い俺はブスッとして訊く。
 さっきからだが、幼い俺の発言は俺の意志には従わない。
 あくまで視点だけが同じだった。

「名雪ちゃんのチョコレート」

 あ。
 そうか。
 俺は毎年、名雪からチョコを貰っていたのか。
 でも、俺は幼かった。
 だから、拒絶し続けた。
 手紙も、年賀状も、そして…

「いらない…」

 このチョコも。
 俺はあまりに幼かった。
 だから、怖かったんだ。
 名雪の気持ちを受け入れることが。
 この街を思い出すことが…。
 そして、記憶を呼び覚ますことが、何よりも怖かったんだ。
 だから、俺は名雪を避け続けた。
 名雪から何かが届く度に、俺は「いらない」と言って、親に怒られていた。
 別に、名雪を嫌っていた訳じゃない。
 どちらかと言えば、好きだったと思う。
 純粋に怖い、それだけだった。
 今考えると、俺は残酷だった。
 胸を掻きむしりたくなるような腹立たしさと口惜しさが沸き起こってくる。
 それと同時に、名雪がとても愛しい。
 感謝のようで、しかし、全く違う感情。
 俺はこれまで、名雪に様々なひどい仕打ちをしてきた。
 それでも名雪は俺を信じてくれた、好きでいてくれた。
 ありがとう・・・、名雪・・・

「祐一?」

 ん?
 また誰かの呼ぶ声がする。

「祐一!」

 そうだ、この声は……。




「祐一!」

 ユサユサ。

「ねぇ、祐一ってば…」

 ユサユサ。

「ん? 何だよ名雪ィ〜、もう少し寝かせてくれよ…」

 ゴロリ。

 寝返りをうつ。

「ダメだよ祐一〜、起きないと上に乗っかるよ?」
「どうぞ、ご自由に・・・」

 ゴソゴソ。

 名雪がベッドに足を掛ける。
 次の瞬間。

「えいっ!」

 ドスッ。

「ぐふうっ!」

 俺の腹に衝撃が走った。
 見ると先ほどの宣言通り、名雪が俺の腹の上に乗っている。
 ニコニコと笑いながら。

「目、覚めた? 祐一!」

 あいかわらず、笑っている。

「死ぬかと思ったわ!」

 と叫んで、名雪を降ろす。

「ひどいひどい〜、私そんなに重くないよ〜」
「重くないが、圧し掛かられれば同じだ!」
「うう〜…」

 名雪はいじけている。

「せっかく起こしてあげたのに。いいもんいいもん! 祐一は寝てれば〜」

 と言って、出ていこうとする。
 俺は慌てて呼び止める。
「わわ、悪かった名雪! で、何の用だ?」

 名雪は歩みを止めて、ゆっくりと振り返る。
 俺の横にやってきて、腰を下ろした。
「祐一…、時計見て…」
「え、時計? 何で?」
「いいから、見て…」

 要領を得ない、名雪の言葉。
 俺は枕元の、名雪から借りた目覚まし時計を見た。
 もう少しで12時になるところだ。

「あ、寝過ごしちまったか!」

 思ったよりも疲れていたのか、あのまま眠ってしまったようだ。
 しかし……。
 名雪を見る。

(こんな時間まで名雪が起きているなんて珍しい……、明日は雨か?)

 ジリリリリリ…。
 ピピピピピ…。

 丁度その時、名雪の部屋の目覚ましたちが、一斉に鳴り出した。
 毎朝のことで慣れているかもしれないが、近所迷惑だ。
 俺と名雪は急いで、全てを止めた。
 ………。
 ……。
 …。
 再び、静まり返った俺の部屋に戻ってくる。

「ねぇ、祐一…」

 名雪に呼びかけられる。

「ん? なんだ?」

 俺と視線が合うと、顔を一気に染める名雪。
 耳まで真っ赤になった。

「あ、あのね? あのね?」
「ん?」
「こ、これ…、バンレンタイン…デー、だから…」

 おずおずと名雪が差し出した箱。
 自分で包装したのだろう、少しだけ包み紙がよれていた。
 それが、とても嬉しい。

「あ、開けても…いいか?」
「どうぞ…」

 名雪の了解を得て、早速開封する。
 包装を取り払うと、白い紙の箱。
 その中には…。

「おおおお!」

 ハート型のチョコに綺麗なコーティングがされていた。
 そして真ん中には「祐一へ」と書いてあった。
 なんだか、テレくさい。
 名雪も恥かしそうにしている。

「なぁ、名雪?」
「な、なぁに?」

 顔をあさっての方向に向けたまま返事をする名雪。

「これ、食べてもいいのか?」
「あ、当たり前だよ、祐一のために作ったんだもん…」
「で、では、いただきます…」

 パクッ。

 口にふくんだ途端、甘い香りが鼻へと抜ける。
 ココアパウダーがまぶしてあったのは、これが生チョコだったからだ。
 口の中で溶かして、名雪の手作りチョコを味わう。
 噛んでしまっては、もったいない。

「どう…?」

 不安げに名雪が訊いてくる。
 変なゴタクはない。
 単純に…

「うまい、うまいよ、名雪」

 俺が応えると、名雪は嬉しそうに笑った。
 母親に似て美形の、可愛らしい笑顔だ。

「良かったよ、本当に良かった…」

 名雪の目は、少し潤んでいた。

「な、名雪?」
「私ね…」

 名雪は一呼吸入れて、話し始めた。

「もし、不味いって言われたらどうしようかって、ずっと思ってたんだよ…」
「これが不味い訳…」
「祐一、聞いて…」

 名雪は右手で、俺の口を制した。

「今まで毎年祐一にチョコを送っても、美味しいとか不味いとかって、返事を貰ったことがなかったから、私、すごく不安だった。祐一がどんなチョコが好きなのか分からなかったから…」
「………」

 俺はさっきの夢を思い出していた。

「それにね、今まで手渡しでチョコを渡したことなんてなかったから、誰よりも早く渡したかったから、目覚ましをセットして、ちゃんと起きられるようにしたんだよ?」

 そうか、だから目覚ましが……。

「でも、結局眠れなかった。なんだかドキドキして、とても眠れなかった。今、祐一に渡せて本当に良かったよ」

 名雪は俺に向き直った。

「これが私の本気だよ」
「………」

 言葉がなかった。
 俺は今、この世で一番幸せな男だと思う。
 でも、この気持ちを伝える言葉が分からない。
 だから、俺は…。

「名雪、ありがとうな?」

 名雪の腰に手をまわし、グイッと引き寄せる。

 チュッ。

 ただ唇を重ねるだけの幼稚なキス。
 しかし突然のことに、名雪は驚いていた。

「え? え? 祐一?」
「ありがとうな、名雪。俺、何言っていいのか分からなかったからつい…」
「い、いいよ」

 ………。
 二人して、顔を真っ赤に染め上げて俯いている。
 気恥ずかしさに、場が持たない。

「え、あ、あのさァ?」

 自然に声を掛けたつもりなのに、声が裏返った。

「な、何?」

 名雪は普通に振舞って見せた。
 さすがは秋子さんの娘だ。

「晩飯は?」

 さすがに腹が減った。

「あっ……」

 名雪は口に手を当てて、驚いたような仕草をした。
 まさか…

「…忘れた、のか…?」
「うん…、ごめんね、祐一…」
「………」

 まさか、とは思ったがな…。
 チョコを作るのに夢中で、忘れてたか。
「よいっしょっと…」

 俺は立ち上がる。

「祐一?」
「チョコのお礼だ、俺がやきそばでも作ってやるよ」

 腹も減ったしな。

「ほら、早く来いよ、名雪」

 後ろに振り返り、笑顔で呼びかける。
 名雪も立ち上がり、笑顔で答えた。

「うんっ!」



 翌日。
 名雪と並んで教室に入ると、昨日はこの世の終りのような顔をしていた人間が、飛び跳ねていた。
 どうやら無事、香里のチョコを手に入れたようだ。
 やれやれ。
 そして、放課後。

「ね、祐一!」
「お? なんだ、名雪?」
「今日私、部活お休みなんだよ」
「え? そうなのか?」
「うんっ!」

 名雪の部活がない日は、いつも一緒に帰っている。

(今日も一緒に帰るか…)

 そう思ったとき、あることを思い出した。

「あ、名雪!」
「何、祐一?」
「今日の帰り、百花屋によってかないか?」
「え? 祐一から誘ってくるなんて、めずらしいよ?」
「昨日、イチゴのデザートの新メニューを見つけたんだ。食べたいだろ?」
「うんっ、行こうよっ!」
「よしっ、決まりだな!」
「祐一のオゴリねっ!」
「ま、待て! オゴるとは言ってない!」
「わーい、祐一のオゴリっ!」

 名雪は嬉しそうに、教室の外へ出て行った。

 フッ。

 仕方ない、オゴってやるか。
 チョコのお礼と、今までの感謝を込めて…。



 ちなみに、俺の思ったとおり、イチゴのクレープはマイナーチェンジされた品だった。
 名雪曰く、カスタードが追加されたことによって、まろやかさがアップしたらしい。
 しかし、食べづらくなったらしい。
 …チェックが厳しいな…。




・名雪編おしまい


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