池田輝政(いけだてるまさ)
1564(永禄12年)〜1613(慶長18年)  
*享年50歳



*恒興の次男で、元は信長の近習で荒木村重の謀反の際は父と共に花隈城攻略戦に従って16歳ほどの若年であったが寄せ手数十人を討つと言った戦功を立て信長から感状を授けられたという。
1584(天正12年)、小牧・長久手の合戦で父と兄が戦死すると、激怒した輝政は家康に弔い合戦を挑もうとするが家臣に止められ、結局は自重し、その父の遺領を継いだ。
大垣城主から1585(天正13 年)には岐阜城主となり、以後紀州雑賀攻めや九州征伐、小田原征伐等に従軍し活躍をする。
1594(文禄3年)には徳川家康の娘を正室に迎え、1600(慶長5年)の関ヶ原の役では東軍に属し緒戦の岐阜城攻めに参加し福島正則・細 川忠興らと共に岐阜城を落城させるといった活躍をした。
本戦では東軍先鋒を務めて奮戦し戦後その功により姫路52万石を与えられた。
関ヶ原の役後は内政に力を入れ、町並を整理するとともに、高砂港の整備して物資の集積地にしたり、それらの収入で得たと思われる豊かな財力と延べ2430万人の人手と約9年の歳月をかけ、現在の大城郭を築き、「播磨宰相」や「西国将軍」とうたわれたという。
彼は武勇だけでなく政治的な能力やすぐれた大局観を持った武将であると思う・・。
優れた大局観を持っていたからこそ家康と和解し家康の妻をめとり、確執にとらわれることなく東軍につけたのだと思う・・・・。

 
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