後藤又兵衛(ごとうまたべえ)
1560(永禄3年)〜1615(元和元年) 
*享年56歳



*又兵衛は通称であり本名は基次である。
初め播州三木城主の別所氏に仕えたが、やがて黒田氏に仕え、孝高・長政親子に従い一度は叔父の謀反が原因で追放され仙石久秀に仕えていた時期もあったが、後に栗山四郎右衛門の与力として召し返されその後は黒田家のもと各地を転戦する。
朝鮮の役では長政をよく補佐し自身も活躍し、特に堀兵右衛門と共に晋州城一番乗りを果たした事は、黒田家随一の勇者として、広くその名を印象づけたという・・・。
関ヶ原の役でも活躍を果たし長政の先手を努め、矢傷・刀傷をものともせず勇猛果敢に攻め立て、特に合渡川戦での武勲も更に彼の武名を上げたという・・・・。
黒田長政が関ヶ原の役の功により筑前52万石を領すと、彼もそれまでの武功により、筑前小隈1万6千石を得ることになる。
母里太兵衛や黒田三左衛門らとともに黒田八虎に数えられる程の猛将だったという・・。
しかしその後主君黒田長政と不和になり後に長政の許を去る。
放浪の途中小倉の細川忠興や広島の福島正則や姫路の池田輝政や津の藤堂高虎らが仕官をすすめてきたが、ことごとく旧主君黒田長政の「奉公構い」という罪を犯したり主君の命令に背いたりした者を追放した上で、他家においても仕官できないようにする罰則を出して仕官を邪魔され、今で言うホームレスと言われるような状態まで落ちぶれたという・・・。
その後豊臣家と徳川家が対立すると、大坂城に入城し大坂五人衆の一人として戦いに奮戦する。
そして夏の陣の1615(元和元年)5月6日道明寺で伊達軍と戦い奮戦するが最後は伊達軍の銃弾が命中し、諦めて家臣に介錯された。
その死を知った後藤隊の者は、後を追うように次々と敵陣に突撃したと言うから彼は相当信頼されていたのかと思う・・・・。
因みに家康からも寝返りの誘いが来て自分の力を認めてくれた徳川・豊臣両氏に深く感謝し「秀頼公には討死にをもって、また戦いの初日に討死にして手間を取らせぬ事で家康公に応えたい」と言ったと言うことから考えると初めから討ち死に覚悟でこの戦いに臨んだのだと思う・・。
彼は武将としての能力はもちろんのこと、最後まで武士の意地と誇りを貫いたすばらしい武将であると思う・・・。
もしかしたら長政が彼の仕官を邪魔したのはそんな有力な武将を他家にやりたくないからねたんで邪魔したのではないだろうか?

 
  戻る