浅井長政(あざいながまさ)
1545(天文十四年)〜1573(天正元年)
*享年29歳



*近江小谷城主浅井久政の子で幼名は猿夜叉という。
はじめ南近江の大名の六角義賢の一字を受けて賢政を名乗っていたが、南近江・六角氏に臣従する父久政を隠居させ、若くして1560年(永禄3年)に家督を継ぎ、同年の野良田(現在の彦根市)合戦で倍ともいえる兵力の六角氏を破った翌年、備前守長政と改名した。
外交面では信長の妹お市と政略結婚をしてその後、友好関係にあった織田氏とともに1568(永禄11年)観音寺城を陥落させて六角義賢父子を追放した。
ついで高島郡の朽木氏を服属させて江北の領有を確立した。
こうして守護・京極氏を完全に圧倒し、独立した戦国大名としての地位を確立し、最盛期を迎えた。
しかし1570年(元亀元年)信長が朝倉氏の治める越前に侵入を始めると、朝倉との同盟関係を重んじる父・久政と意見が対立したが、ついに信長に離反し兵を挙げる。
しかし浅井・朝倉連合軍は姉川の戦では織田・徳川連合軍の半数ほどの兵力で善戦し後一歩と言うところまで苦しめたが結局敗退した。
以後、本願寺や武田信玄や比叡山などと結び巻き返しを図ったが、1573(天正元年)8月、武田信玄の死に乗じて信長は小谷城に猛攻をかけ落城させ、長政は久政とともに自刃した。
この小谷城攻略は武田信玄が死んでいなかったら実行不可能であっただろうと言われている・・・。
因みに落城寸前に室お市と三人の娘は信長に引き取られ長女茶々は豊臣秀吉の側室淀殿に、二女初は京極高次室に、三女小督は徳川秀忠室となり歴史を大きく動かした人物にあるのは有名な話であろう。
この時、長政の長男を発見し殺す役を果たしたのが秀吉だったとようでこの事をお市の方が秀吉を逆恨みして当てつけのため勝家と結婚したとも言われている・・・。

 
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