小さな哲学~雑想の世界
         哲学入門のためのホームページです。
更新履歴更新履歴 TOPへTOP
 13歳からの哲学(中高生の哲学)
哲学ってどんなこと?1.哲学ってどんなこと?

 22歳の哲学(大学生の哲学)

 30歳からの哲学(壮年の哲学)

 哲学エッセイ

 筆者について
哲学ってどんなこと?

「中学生(高校生)の哲学」にようこそ! キミたちは中学生? それとも高校生?高校生なら、「哲学」って言葉、どこで聞いたの? 高校の授業に哲学はないはずだからね。中学生なら、ずいぶんと早熟な人かもしれない。ここでは、みなさんが哲学についてもつだろう疑問に答えながら、「哲学とはなにか」を説明してみたいと思います。さて、うまくゆくかどうか。


まず、ボク()が考える哲学をいうね。

「当たり前のことに立ち止まり、しつこく、できるだけ正確に考えなおすこと。」


どう? キミたち()の思っていた哲学とピッタリ合ったかな? なになに、短い言葉でわかりやすいようで、かえってわかりにくいって?なるほど。じゃぁ、すっきりしないところ、なんでも聞いてみて。

 「当たり前のこと」ってどんなこと?

 90パーセント以上の人が、「そんなの考える必要はない。考えてどうする。ふんっ」って思っていること。

 なんでそんなこと、わざわざ、しつこく考えようとするの?

 たいした理由はないよ。ただ、考えるのが楽しくてしょうがないから。考えないでおこうと思っても考えてしまうから。さらりといえば趣味だから。おじさんが喜ぶいい方をすると、恋わずらいみたいなものだよ。恋に理由はないだろ?これはもう、ものごごろついたときからのもの。

 そんなことばっかり考えていたら、ジョーシキのない人にならない?

 うん、そこは大切だね。哲学をする人が、たんなるヒジョーシキ人だったら困るもんね。ボクはいつも哲学科の学生に、「多数派(ほとんどの人)の考え方をしっかり知ったうえで考えて」ってエラそうにいってる。自分のことはすっかり棚(たな)に上げてね。

 じゃぁ、そんなことばかり考えていたら、頭がカタくならない?

 90パーセントの人の考えと10パーセントの人の考えの両方を知っている人は「ヤワラカ頭」の人だとボクは考えてる。逆に、いつも90パーセントの人の考えだけにこだわっている人はどうなのかな‥‥

 哲学がものごころついたときからの趣味だったら、哲学する人はほっておいても哲学しているんじゃない。

 そのとおり! 哲学しない人は「やれっ」っていわれても哲学しないだろうけど、哲学する人は「やめろっ」っていわれても哲学をやめない。かりに人口の10分の1と考えても、そういう風に哲学をしている人は日本に1000万人以上いる計算になる。

そのなかには、ものすごい「哲学の鉄人」がいるかもしれないけど、哲学科で学んでいる人はほんの少しだから、誰にも気づかれることがないんだ。自分がやっていることが「哲学」だということを知らない人も多い。キミたちのようにそれに気づいた人はラッキー(?)なんだよ。

 「当たり前」のことって山ほどあるんじゃない?

 キミには哲学のセンスがあるね。アンテナがいいっていうか。「当たり前」のことが山ほどあるってことに、ほとんどの人は気づかないのだから。たしかに、考えようによっては当たり前のことは山ほどある。

例をあげると、「ボクがほかの人じゃなくてボクである理由」「友だちにもボクと同じボクがあるのか」「悪いことをしてはいけない理由」「悪いことと良いことの区別」「すぐに神さまにすがってしまう理由」「ネコには学校がなくて人間にはある理由」‥‥。えっ、ネコにもあるって!?失礼!

 「当たり前」のことが山ほどあるのはいいけど、ボクが特に興味をもっているのはそのうちのひとつだけなんだけど‥‥

 それはそうだよ。興味のある問題(テーマ)をたくさんもっている人もなかにはいるけど、ひとつだけという人の方が多いんだよ。

 その人が興味をもつテーマはどうやって決まるの?

 それはたぶん、その人の生い立ち(どういう風に育ってきたか)や、生い立ちによって育てられた資質(その人の性質っていってもいいかな)で決まるとボクは思ってる。同じことは、哲学のセンスをもつかどうかにもあてはまるんだよ。

 自分の興味のあるテーマを自分なりに考えればいいってこと?

 うーん。それはちょっとちがう。「自分なりに」ではなく、正確に考えないといけない。ここがさっきいった恋と哲学がちょっとちがうところかな。

 だったら、どうすれば正確に考えることができるの? わたしたちがいま習っている、数学の証明や科学の実験のようなものが哲学にあるとも思えないし‥‥

 そうだね。哲学には数学のような証明や科学のような実験はない。こんなのがあると、同じ手続きさえふめば、だれでも同じ答えになるから便利なんだけどね。とすると、どうすれば正確に考えられるのか?

それは‥‥キミはお笑いがわかる? NON STYLE!はおもしろいよね。そんなこと聞いてない? わかるならかんたんに説明できるんだけど、「自分で自分にツッコミを入れながら考える」ということなんだ。関西風にいうと、「ちがうやろ!」とか「なんでやねん!」っていうアレ。ひたすらツッコミを入れながら考え続ける、というのが哲学の正確さのみなもとなのさ。

 じゃぁ、センセイにツッコむけど、自分で自分にツッコミを入れているなら、やっぱり、「自分なりに」考えているだけじゃないの?

 スルドイ。キミのいうとおり、けっきょくのところ、哲学はひとりよがりなのかもしれないね。そういうツッコミは甘んじて受けるよ。でも、わかって欲しいのは、哲学をする場合、はじめからひとりよがりであろうとしてはいけない、ということなんだ。

自分で自分にツッコミを入れるというのは、ひとつの考え方をしている自分に別の考え方をしているもうひとりの自分をぶつけるということ。ボクはいまこう考えているけど、○○さんならきっとこう考えるだろう、△△君はこう考えるかもしれない、というふうに考えることなんだ。たくさんの人と出会うことは、自分のなかに自分をツッコんでくれるもうひとりの自分をつくりだすきっかけになるんだ。これからは、この、自分をツッコんでくれるもうひとりの自分を「ツッコミスト」と呼ぶことにしようか。

 哲学する人は友だちがたくさんいることが条件なの?

 そうだね。たくさん友だちがいるにこしたことはないと思う。それも、いろいろな考え方をもった友だちがね。ボクは大学に入ってきた学生たちには、まず「友だちをたくさんつくってください」っていってる。できれば、ちがうことは「ちがう!」っていってくれる友だちがいいな。なんでもかんでも「あなたのいうとおりよ」なんていつもいってくれる人は、友だちとして不合格。

 でも、アニメとかを見ていると、哲学者は山奥でひとり生きてる仙人のように描かれているけど?

 困るんだよね、そういうの。ボクも昔、「ムーミン」(リメイクされたやつじゃなくて、昔のもの)というアニメを見ていたんだけど、そこには山奥のほらあなでひとり暮らしている気むずかしそうなおじさんが哲学者っぽく描かれていた。そのおじさん、人と会うと「ムダジャ、ムダジャ」しかしゃべらないんだよね。哲学をするためには社会性(人とつながる力)が必要なのに‥‥。山奥のほらあなでひとり暮らしている人は仙人か変人。ぜんぜん、哲学者じゃない。

 口べたで友だちをつくるのが苦手なんだけど、わたしには哲学できないの?

 口がうまいことは哲学をするための条件じゃない。自慢じゃないけど、ボクだって授業ではかみまくりだからね。こんな仕事をしていても人前でしゃべることがすごくニガテなんだ。キミには好きな本はある?っていうか、そもそも本読める? OK? だったらキミはその本のどういうところが好きなの?著者の考え方、それとも登場人物の性格? この人たちはキミのツッコミストになれる。そのほかにも、キミには好きなセンセイはいない?いない? だったら親類のなかに尊敬できる人はいる? いるなら、その人がキミのツッコミストになってくれる。

でもね、自分の考えを正確に表現できることはキミたちの将来のためにとても大切なことなんだ。大学に入ってきたばかりの学生のなかには、「出る杭(くい)は打たれる」と思っているのか、貝のように口を閉ざしてしまっている人がいる。中学や高校でいつまでたってもイジメがなくならないから無理もないけど、困ったことだと思ってる。だから、哲学科の一年生の最初の授業は、周りの人の考えを正確に理解したうえで、しっかりと自分の考えを表現する練習なんだ。

 いまは生きてない歴史上の人物でも、わたしにツッコミを入れることはできる?

 もちろんできるさ。ツッコミストに、いま生きているかどうか、本当に生きていたかどうかは関係ない。ツッコミを入れるというのは生(なま)の声を聞くことじゃなく、その人のイメージを自分の心のなかの声にすることだからね。さっき哲学には人とつながる力が必要だといったけど、生きている人がニガテなら、本のなかで自分の姿を残している人とつながってもいいんだよ。それが何千年も昔の行ったこともない外国の人だってかまわない。

 あぁ、わかった。哲学のセンセイの書く本にむずかしい名前の外国人がでてくるのは、そういうこと?

 そういうこと。人間の長い歴史のなかには、自分と同じテーマについてほんとによく考えていた人がいるものなんだ。自分と同じテーマについて考えた人にツッコミストになってもらおうとしているのさ。

 ということは、センセイたちは、自分のテーマについて考えるために昔のエライ人たちを利用しているの?それって、ズルくない!?

 ご名答。まだ夜中に枕元でしかられたことはないので、たぶん大丈夫だと思う。

 哲学のセンセイたちの書く本には、むずかしい人の名前だけじゃなくって、むずかしい言葉もたくさんでてくるんだけど?

 そういう言葉を「専門用語」っていうんだ。ボクのようにいったん哲学のセンセイになってしまうと、専門用語を使って説明する方がてっとりばやくて楽なのさ。でも、専門用語を使うことは仲のいいグループだけで通じる暗号を使うようなものなんだ。だから、いつも生活のなかで使う言葉と専門用語、どちらも使って同じことを説明できるように訓練してる。

昔から哲学の世界に専門用語が多いのは、哲学者には、自分が考えていることをできるだけ正確に伝えよう、少しでもちがう内容ならちがう言葉を使おう、って考えるキマジメな人が多かったからなんだ。ボクはフマジメだけど、さっきのツッコミストというのもそうかもしれない。ツッコむ自分をツッコミスト、ツッコまれる自分をツッコマレストなんていいだしたらもうタイヘン。とにかく、そういうキマジメな人が、何千年にもわたって哲学の専門用語を増やしてきたんだけど、なかにはその言葉の海におぼれてしまった人もいるんだ。 

 ツッコミを入れながら考えるということはわかったけど、そうやってたくさんの人から次々ツッコミを入れることにしたら、いつまでたっても答えがまとまらないんじゃない?

 答えがないと安心できないの? 次から次へ穴埋めの試験に追われているキミたちにはしかたないかな。でも、きっちりとした美しい答えがでるかどうか、は哲学にとっては重要なことじゃない。哲学は考えるということで、考えた結果としてでた答えじゃないんだ。少しむずかしいいい方をすると、哲学は「哲学する」という動詞で、プロセスなんだ。

ひとつ例をあげて説明すると、大学生になると四年生は卒業論文というのを書かなくちゃいけない。哲学科の学生は、自分のテーマについて四年間あれこれ考えたことを文章にするわけ。なかには、自分のテーマについてきれいな答えがでた、ってナットクして書く人もいるけど、けっきょく、答えがでなかった人も多いんだ。そういう人は、「けっきょく、答えがでなかったというプロセス」を文章にするけど、それがとてもリッパな卒業論文になる。

 哲学科で勉強したとしても、ボクが一生懸命考えたプロセスをセンセイが本当に評価してくれるのかどうか、心配。

 そうだね。結果は二の次といっても、評価もしてもらえないと張り合いがないからね。その点は、ボクたちはこの道のプロなんだから信頼してまかせて欲しい。ちょっとキミたちにはむずかしい話かもしれないけど、もともと学校というのは、プロセスの評価と結果の評価が両立していることに特徴があるんだ。一般企業にこれはできない。企業は企業にどれだけ利益をもたらしたかという結果だけを評価しないと破産してしまうからね。いまでは企業と区別のつかないカンチガイ大学も増えてきたので残念なんだけど、この考え方は昔から特に大学で強く意識されてきているんだ。

 哲学の授業ってどんな感じ?

 いろいろな授業があって一言では説明できないけど、あるテーマをセンセイが選んでいろいろな角度から哲学するのを学生が聞いて自分のツッコミストにしたりするもの(講義とか)、昔の人がどういうふうに哲学したのかを理解して、これまた自分のツッコミストにする授業(哲学史)、学生がテーマを決めて学生どうしで議論するようなもの(ゼミ)なんかがある。よかったら、ここ(文学部→哲学科を選ぶ)を参考にして。

 倫理社会というのが授業にあったけど、倫理と哲学はちがうの?

 へ~、キミの学校はすごいね。倫理学もあるんだ。ボクの学校には西洋哲学・日本哲学コース、倫理学・人間関係学コース、宗教学・死生学コースという3つのコースがあるので、全部ひっくるめて哲学との関係を説明しようか。

哲学がいろいろなテーマについて考えるというのはもうわかったね。このテーマはいっぱいあるんだけど、どのテーマも、西洋の昔の人たちがとてもよく考えているんだ。だから、自分のテーマを考えるときに、同じテーマについて考えていた西洋の人々をツッコミストにして考えるのが西洋哲学。これはオールマイティだよ。日本哲学というのは明治時代以後に西洋の思想が日本ににどんどん入ってきたのだけど、その当時の日本には新しく入ってきた西洋哲学を基礎にしながら、自分たちが慣れてきた日本的なもの(たとえば仏教的な考え方とかね)をミックスした新しい哲学を作ろうとした人たちがいた。その人たちの考え方を参考にしつつ哲学するのが日本哲学だよ。

倫理学というのは、そういういっぱいあるテーマのなかでも、価値(良いとか悪いとかいうこと)とかにウエイトを置いた学問なんだ。命にかかわる良い悪いは生命倫理、環境についての良い悪いは環境倫理、情報についての良い悪いは情報倫理っていわれる。良いとか悪いとかいうことは、人と人との関係のなかにだけあることだから(ひとりだったら、なにをしてもOKだからね)、倫理学は人と人との横のつながり、人間関係を特に大切にしている。

宗教学は、少しむずかしいかもしれないけど、自分と自分を超えたものとの関係にウエイトを置く。「自分を超えたもの」というのは、自分のもっているスケールでは測りきれないものといってもいいかな。それは、「神さま」っていわれる場合もある。ざんねんだけど誰でも死んでしまうという意味では「死」がいちばん大きいと考える人も多いだろう。倫理学は人と人との横のつながりを大切にしたけど、宗教学は人と人を超えたものの縦のつながりを大切にするんだ。これを、ボクの同僚のカドワキっていうおもしろいセンセイは、倫理学は水平関係、宗教学は垂直関係っていってる。

 インド哲学とか中国哲学とかいう言葉を聞いたことがあるけど?

 ホント、キミはなんでも知ってるんだね。実は、「哲学」という言葉には、ボクがさっき説明した意味とはちがう、もうひとつの意味があるんだ。それはとてもひろ~い意味で、「考え方」ぐらいの意味なんだ。むずかしくいうと、「思想」。だから、インドの人たちの考え方はひっくるめてインド哲学っていわれるし、中国の人たちの考え方はひっくるめて中国哲学っていわれる。ちなみにボクが高校のときに倫理社会で使った教科書は、いろんな考え方の展覧会みたいな本だったなぁ。いまボクが専門にしているのは、前に説明した西洋哲学だけなんだ。

 哲学をして社会のために役立とうとしているボクはどうなるの?

 エライね。困った人のためになろうとしてるのかい? もちろん哲学をした結果、社会のために役立つ人はいるよ。でも、哲学は社会のために役立つことをいちばんの目的にするわけじゃないってことなんだ。哲学をした結果として社会のために役立った人はたくさんいる。人の受け売りなんだけど、奴隷制度が当たり前の時代に奴隷制度について立ち止まって考えた人がいたから奴隷制度はなくなったし、女性よりも男性の方がエライのが当たり前の時代にそれについて立ち止まって考えようとした人がいたから、少しずつだけど女性差別が減ってきた。

知っておく必要はないけど、プラトンやデカルトやカントやヘーゲルといった昔の哲学者がいなかったら、いまのようなボクたちの暮らしはないんだよ。哲学(とか文学)はすぐに効く薬じゃなく、少しずつ体質を変えてゆく漢方薬のようなものなんだ。これも人の受け売りなんだけど、ボクシングでたとえると、ノックアウトパンチではなくボディブローに結果としてなる場合がある。キミがこうした、社会に対するボディブローパンチの一発になる可能性はあるのさ。ところでキミ、パンチってできる?

 よく似たことを聞くようだけど、哲学をして就職の役に立つの?

 同じような答え方をすると、ボクたちは就職の役に立つことを一番の目的にして学生に哲学をしてもらっているわけじゃないんだ。でも、哲学をすることによって、いずれ社会にでてからも役立つだろうと思うことがある。いま、そのひとつだけをあげると、いろいろな角度からジュウナンにものを見ることができる、ということなんだ。哲学をした人は、同じものを見るにしても、「ああでもない、こーでもない」と、たくさんの視点から見ているわけだからね。そうしたものの見方は、企業でも新鮮なものの見方、新鮮な切り口になる可能性があるのさ。

 有名な哲学者は男性ばっかりみたいだけど、哲学科も男性が多いの?

 ボクの学校では、年によってちがうけど、だいたい哲学科の男女比率は7対3くらいかな。哲学をするのに男女の差はないよ、まったくね。昔の哲学者に男性が多いのは、哲学にかぎらず、学者の世界が男性優位の(男性がエラそうにしている)世界だったからなんだ。ただ、それだけ。

 なんか、哲学をしてみたくなってきた。でも、「哲学をすると不健康になるっ」って親からいわれたんだけど?

 自分の好きなことをやって、なんで不健康になるのさ。自分の好きなことをやっちゃいけないってガマンするほうがよっぽど不健康じゃない?

 いろいろ説明を聞いてきたけど、いまひとつわからない。もっと聞いてもいい?

 もちろんいいよ。でも、今日はだいぶ話して疲れただろうから、日をあらためよう。じっくり考えて、メールをくれてもいいよ。返事するから。

 センセイっていつも哲学ばっかりしてるのかニャー?

 いっぱい趣味があるんだ。例えば、キノコを観察したりするのも昔から大好きなんだ。

 キノコと哲学は関係あるの?

 ゲロッ。


(このページを読んだかもしれない大人の方へ一言)

対話形式で哲学について語るというのは、たしか、永井均が『翔太と猫のインサイトの夏休み』のあとがきで語っていたように、恐らくヨースタイン・ゴルデルの『ソフィーの世界』からの一つのパターンだと思います(もちろん、プラトンの対話篇がそのオリジナルでしょうが)。こうしたパターンを踏襲したすぐれた書物が日本の哲学者たちによって次々に書かれていることは事実ですが、私自身はこのページを書くに当たって、それらを模倣しようとしたわけではありません。そうした著作からの影響をまったく免れることもできないでしょうが、これを書くに際に常に念頭に置いていたのは、高校生たちの生(なま)の声を反映させたいということでした。

私の勤める大学では、年に数回のオープンキャンパス(大学を受験生に開放するイヴェント)が行われ、高校生を相手にしたミニ講義や学科相談コーナーが開設されます。そこでの高校生との会話の再現がこのページなのです。オープンキャンパスに参加したことのない高校生や中学生も、恐らく同様の哲学に対する疑問をもっているはずだと考えました。今回、ここに再現できたのは、残念ながら、そうした高校生との会話のごく一部に過ぎません。今後、より充実したものにしたいと思っています。

PAGE TOP▲
Copyright © 2003- Yasushi Murayama
リンクはフリーですが、このホームページの文章・写真・イラストなどを無断で転載することはお断りします。
Since 03.12.01
je-pu-pu 無料カウンタ
MAILMAIL(問い合わせ)