小さな哲学~雑想の世界
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定義集定義集(「人間」編)

 哲学エッセイ

 筆者について
定義集(「人間」編)

なにか資料になるようなものを作れればよいのですが、あまりよいものを思いつきません。とりあえず定義集ということで、「人間」についての定義を集めるおくことにします。いつ完成するかわかりません。青字が思想家からの引用であり、黒字が筆者による簡単な補足説明です。少しずつ加えていくつもりですので、気長にお待ちください。


プロタゴラス(Πρωταγόρας, 紀元前500年?-紀元前430年?)
「人間は万物の尺度である。あるものについてはあることの、あらぬものについてはあらぬことの。」(ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝』等)

ユウェナリウス(Decimus Junius Juvenalis, 60-130)
「いともやさしいこころこそ、
自然から人類が授かったもの、
自然が人類に涙を贈ったのがその証拠。」(『風刺詩集』)

ピコ・デッラ・ミランドラ(Giovanni Pico della Mirandola, 1463-94)
「誰が、われわれのなかにいるこのカメレオンに驚嘆しないでしょうか。」(『人間の尊厳について』)
バラはバラであり、ライオンはライオンであり、神は神である。それらはみな、生まれながらにしてそれであることを定められ、生涯それ以外のものになることはない。だが唯一人間だけが、心のどの要素を重んじるかによって、人間として生まれながらも、植物にも、猛獣にも、天使にも、場合によっては神のようにさえもなることができる。自分がなんであるかを決定する自由意志の能力を、ピコは「人間の尊厳」と考えた。現在のわれわれにとってはあまりに陳腐にも思えるこの言葉を語るために、ピコは命を賭した。

モンテーニュ(Michel Eyquem de Montaigne, 1533-92)
「人間というものは、おどろくほど空虚な、多様な、変動する存在なのだ。これについて、一貫した、一体となった判断をたてることはむずかしい。」「私は存在(エートル)を描かず、移り行き(パッサージュ)を描く。それも、年齢から年齢への移り行きを描くのではなく、日ごとの、時々刻々の移り行きを描く。」(『エセー』)

パスカル(Blaise Pascal, 1623-62)
「人間が偉大なのは、自分が悲惨だと知っているという点において偉大なのである。木は自分が悲惨だと知らない。」「人間は天使でも、けだものでもない。」「人間とはまあ、キマイラみたいなものではないか。なんという珍奇なもの、なんという怪物、なんという混沌、なんという矛盾のかたまり、なんという驚異だろうか。すべてのものの審判者でありながら、愚かな土中のみみず、真理を託されたものでありながら、不確実と誤謬の掃きだめ、宇宙の栄光であって宇宙の屑。」「けっきょく、自然のなかで人間とはなにものなのだろうか。無限に比べれば無、無に比べれば全体、無と全体との中間。両極端を理解することからは限りなくへだてられているため、物事の終わりとはじめとは、人間にとってはどうしようもなく底知れぬ神秘のなかに隠されている。人間は、自分が引き出されてきた無をも、自分が呑み込まれていく無限をも、等しく見ることができない。」「人間は一本の葦にすぎない。自然のなかでいちばん弱いものだ。だが、それは考える葦である。これを押しつぶすには、全宇宙はなにも武装する必要はない。一吹きの蒸気、一滴の水でもこれを殺すに十分である。しかし宇宙が人間を押しつぶすとして、人間はなお殺すものよりも尊いであろう。人間は、自分が死ぬこと、宇宙が自分よりも勝っていることを知っているからである。宇宙はそんなことはなにも知らない。だから、私たちの尊厳のすべては考えることのうちにある。まさにここから、私たちは立ち上がらなければならないのであって、空間や時間からではない。私たちには、それらを充たすことはできないのだから、正しく考えるように努めようではないか。いかに生きるかの根源はここにある。」「人間は自分が死ぬことを知っている。宇宙はそんなことはなにも知らない。だから、私たちの尊厳のすべては考えることのうちにある。……だから、正しく考えるに努めようではないか。」「人間はいつも、絶望するか、傲慢になるかというふたつの危険にさらされている。」(『パンセ』)
矛盾するかのようなパスカルの言葉であるが、彼は人間の本質を中間性であると考え、その中間性に積極的な側面と消極的な側面を見て取っているのである。前者は人間の尊厳であり、後者は人間の悲惨さである。ピコとは違ってパスカルが後者の側面を加えたのは、パスカルがキリスト者であったからである。いや、後者の側面を見たからパスカルはキリスト者になったと言うべきかもしれない。

ジャン=ジャック・ルソー(Jean-Jacques Rousseau, 1712-1778)
「人間は自由なものとして生まれた、しかもいたるところで鎖につながれている。自分が他人の主人であると思っているような者も、じつはその人々以上に奴隷なのだ。」(『社会契約論』)

アダム・スミス(AdamSmith, 1723-1790)
「人間とは取引をする動物である。犬は骨を交換しない。」(『国富論』)
アダム・スミスは古典派経済学者。

カント(Immanuel Kant, 1724-1804)
「人間が自らの表象において自我をもちうることは、人間を地上にいる他のすべての生物を越えて無限に高めるものである。」(『人間学』)
ここでカントの言う「自我」とは「人格」のことであり、道徳的な選択を行いうる主体、言いかえれば、道徳的な選択の方向へと自らを律しうる自由(自律的)な主体の意味である。カントが生まれ育ったのはルター派プロテスタントの一派、敬虔主義の信仰篤い善良な家庭であり、地域社会であった。カントの道徳を非現実的であると考える向きもあろうが、彼にとって道徳はありふれた人間の日常的感覚の概念化なのである。

キルケゴール(Søren Aabye Kierkegaard, 1813-1855)
「人間とは精神である。精神とは何か。精神とは自己である。自己とは自己自身にかかわる一つの関係である。」(『死に至る病』)

ニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche, 1844-1900)
「人間とは、乗り越えられるべきあるものである。」(『ツァラトゥストラ』)
言うまでもなく、人間(Mensch)を超えた存在が「超人」(Übermensch)である。

鈴木大拙(1870-1966)
「罪というのは必ずしも法律上とか道徳上でいうものに限らぬ。何か他の人に接して、貪瞋癡の一念が動けば、それが罪である。外面に現れないでも、手足の上で行動面に動き出ないでも、内に動く一念は直ちに罪である。誰に対してどう犯したということにならなくても、ただ内に働いた、そうしてその動きに気がついた、自覚があったということが罪なのである。どのような人間でも、苟も人間と言い得るものには、ことごとくこれがあるのである。罪の感じのないものはまだ人間一疋にならぬと見ても差し支えない。人間の特権また特恵というべきはじつにこの罪悪感に在るのである。」(『妙好人』)

シェーラー(Max Scheler, 1874-1928)
「すべての定義が失敗するほど、人間は幅広く、多岐多様なものである。」 (『宇宙における人間の位置』)

河上肇(1879-1946)
「人間は人情を食べる動物である。」(「断片」)
河上は経済学者。左翼思想家として京都大学の教授の席を追われ、投獄された。

コリングウッド(Robin George Collingwood, 1889-1943)
「人間は、他人の経験を利用するという特殊な能力をもった動物である。」(『歴史の観念』)

サルトル(Jean-Paul Charles Aymard Sartre, 1905-1980)
「人間は自分自身でそうなろうとする者以外の何者でもない。これが実存主義の第一原理である。これがまた主体性といわるものでもある‥‥」(『実存主義はヒューマニズムである』)「人間が定義不可能であるのは、人間は最初は何ものでもないからである。人間はあとになってはじめて人間になるのであり、人間はみずからつくったところのものになるのである。このようにして人間の本性は存在しない。」(『実存主義とは何か』)

フランクル(Viktor Emil Frankl, 1905-1997)
「わたしたちは、おそらくこれまでどの時代の人間も知らなかった『人間』を知った。では、この人間とはなにものか。人間とは、人間とはなにかをつねに決定する存在なのだ。」(『夜と霧』)
なにかを決定する存在としての人間は「実存」(Existenz)と表現される。

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